168: 暗闇の先





 ティヴァナの重装備隊の一角を崩したところで、ユリアはそっと戦場から抜け出した。ここから先は兵士達の仕事だ、いつまでも留まっていては、逆に足手まといになってしまう。
 フィードニアの陣営に戻ると、泣きながら飛びついてきたダーナに、どれだけ心配したことかと懇々と訴えられた。そして日が暮れて戻ってきたクリユスにも、自分がどれだけ危険なことをしたのか分かっているのかと散々に説教をされた。
「どうして事前に相談をしては下さらなかったのですか」
 尚も詰め寄ってくる二人に辟易とし、ユリアは反論を試みる。
「そんなの、事前に言っていたら反対しただろう」
「当たり前です!」
 二人が綺麗に声を揃えて怒鳴った。まったく、こういう時だけは気が合うのだから堪らない。
「けれど私は無謀なことをしたとは思っていないぞ。ティヴァナの信仰心なら、フィルラーンを攻撃する筈が無いことは分かっていた。寧ろ怪我をさせてしまうことを恐れ、道を空けるに違いないと思ったんだ。実際目論見通りだったではないか」
「確かにその通りです。ですが戦場の中では何が起こるかなど、誰にもわかりませんよ。当てるつもりなどなくとも、飛び交う矢が流れてくることだってあるのです。いいですか、他の国がこのような無謀な策を取らぬのは、ひとえに唯一無二であるフィルラーンを戦場で失うような愚かな真似をしないからです」
「分かった、私が悪かった。今度からは前もって相談する、それでいいのだろう」
 これ以上説教を続けられぬように、ユリアは見かけだけでもしおらしく項垂れてみせる。その様を見て、傍にいたラオが堪えきれないとばかりに笑い出した。
「まさかティヴァナの奴らも、戦場に降臨した女神が後方の陣営に引っ込んだとたんに兵士と世話役に説教を喰らってるとは思わんだろうよ」
 呑気に笑うラオをクリユスが鋭い目で睨みつけたが、彼は一向に意に介さない。
「もうその辺で勘弁してやれよ。そもそもそのフィルラーンを戦場へ連れ出したのはお前だろうが、クリユス。ユリアの性格からすれば、こういう向こう見ずなことをしでかす事も十分予測出来ただろう。それにティヴァナの重装備隊を崩してくれたのがフィードニアにとってありがたかったのも事実だ」
「それはそうだが」
 正論を言われ、クリユスは珍しく反論できずに黙った。ただし眉間の皺は刻まれたままだ。分かってはいるが心情的には納得出来ないと、そういう事なのだろう。暫くの逡巡のあと、諦めたように溜息を吐く。
「そうですね、認めます。確かにユリア様のお陰で重装備隊を破り、苦境を打破出来ました。ですがそれも今回限りにして下さい。万が一にでも貴女の命が失われるようなことになったら、私はいったい誰の為に生きたら良いのですか」
 言いながらそっとユリアの手を取るクリユスに、またいつもの悪い癖が出たかと思いはしたが、真面目な顔で口にするので本気なのか冗談なのかが分からない。
「悪いがそれは約束できないな。私はまだ当分の間は同じ事をやるつもりでいるんだ。そうだな……少なくとも、兵士達自身がフィードニアの強さを信じるまでは」
「ユリア様……もしや貴女は、ジェド殿の代わりになるおつもりですか」
「まさか」
 眉をひそめるクリユスに首を横に振ると、ユリアはふふ、と笑った。
「私にジェドの代わりが出来る筈が無い。今回のことだって、私はほんの少し皆の手助けをしただけだ。重装備隊の一角が崩れたあと、その亀裂を割り突破し、更に後方に控える騎馬部隊を打ち破ったのは、フィードニアの兵士達の力に他ならない」
 確かに今は、戦女神の奇跡の力だと思っている者が多いかもしれない。だが何度も繰り返しているうちに、彼らは気付くはずだ。ユリアが導いたのは勝利へのほんのきっかけにしか過ぎず、それを真に成したのは己達の力なのだと。彼らには英雄にも、女神の奇跡などにも頼らずとも、戦っていける力を既にその手にしているのだと。
「だから私は戦場に出て彼らの手助けをするが、敵兵の深部にまで踏み込むつもりはない。ちゃんと護衛の兵もつけて貰うつもりでいる。それならば危険もそう多くは無い筈だ。だからいいだろう、クリユス」
 目を向けられ、クリユスは困ったように苦笑した。
「参ったな……そこまでのお覚悟がおありならば、最早私に貴女を止めることなど出来ませんよ。ただし危険な場面に遭遇したら、何よりもまずご自身の安全を考え逃げて下さい。それが約束出来ぬのならば、天幕の柱に貴女を縛ってでも戦場へは出しませんから、そのおつもりで」
「ああ、わかった。約束する」
 クリユスの許しを得て、ユリアはほっと一息ついた。この男の反対を押し切って戦場へ出て、毎回説教されては堪らないというのもあるが、やっぱり彼に背を押してもらえると安心感があった。クリユスがフィードニア側に付くことを選んでくれて、つくづく良かったと思う。

 夜半、いつものように行われた軍議に参加すると、ユリアを見る皆の目が変わっていることに気付いた。今までも決して軽んじられていた訳ではないが、やはり戦場においては客人扱いというか、どこか応対に困っている風だったブノワやフリーデルといった面々も、揃って敬意を込めた目を向けてきたのだ。
「いや、凄いものを見させて頂きました。あの鉄壁の重装備隊が、ユリア様の前に一歩も動けずにいるのですからな」
「本当に、常から戦女神としてお慕いしていた我らフィードニア兵でさえ、本物の神が降臨なされたのかと度肝を抜かれる思いでしたからな。まあティヴァナ兵が恐れをなすのも無理はないというものです」
 いまだ興奮冷めやまぬといった様子の皆から浴びせられる賞賛の言葉に、ユリアは苦笑する。先程から軍議は一向に進んでいなかった。
「私のしたことなど、大したことではない。それよりも今後はどう攻めるんだ?」
 言いながらハロルドに目を向ける。ユリアは既に喋り方を装う事を止めていた。この場で威厳を出し皆と語らうには、この方が良いと判断したのだ。
「そうですね、目下目指すところは奪われた国境線一帯をこっちに取り戻すことですな。その為にまずは現在ティヴァナが張ってある陣営を叩き、後方へ下がらせなくてはなりませんが」
「ならば真っ向からティヴァナ軍とぶつかり合うよりも、直接ティヴァナの陣営を叩くべきですね」
 フリーデルの言葉に皆が頷く。それを受け、ハロルドがならば、と続けた。
「夜襲を仕掛けるか。だがその前に出来るだけ相手を疲弊させておきたいな。明日の昼戦は、特に戦力の高いテガンの部隊を徹底的に叩く。各隊を分散させ、休む暇を与えず四方八方から攻撃を仕掛けろ」
「は」
「ティヴァナの兵士を疲れさせればいいのであれば、私も力を貸そう。彼らを翻弄するだけならば、私も役に立つだろう」
 ユリアが言うと、ハロルドが口の端を吊り上げ破顔した。
「これはありがたい。女神が戦場の方々に現れては消えるとなれば、ティヴァナはさぞ混乱するでしょうな。再びユリア様のお手を煩わせることになり、申し訳ありませぬが」
 恐縮するようにハロルドは言ったが、夜襲の策を立てたときから既に、ユリアが力を貸すことを想定していたのだろうと思えた。相手を疲弊させても、フィードニアは極力力を温存しておきたいのだ。兵士以外で相手を霍乱させられる者がいるのならば、この男が利用しない筈が無い。ハロルドの持つそういう強《したた》かさがユリアは嫌いではなかったし、今のフィードニアにとってはこの上なく頼もしいものなのだ。

 翌日、ユリアは再び煌びやかな装飾を腕や額に施し、精一杯の威厳を演出しながら戦場へ出た。
 やはりティヴァナの兵はユリアを傷つけることも行く手を止めることも出来ず、神出鬼没に現れては消えるフィルラーンの存在に、右往左往するしかなかった。その上フィードニア兵も攻めては引き、更にまた別方向から別の隊が攻め来ては引く。それを延々と返すのだ、恐らくティヴァナも疲弊させるのが目的だと分かっているだろうが、現時点では打つ手が無いといった感じだった。
 日が暮れ、兵士達は陣営に戻ると、夜襲に備え束の間の休息を取っていた。夜襲に関しては、ユリアの出番は無い。今夜は大人しく、陣営守る僅かの兵士達と共にここに残ることとなった。
「ユリア様、湯を持ってまいりましたわ。お身体をお拭き致しますわね」
 ダーナが湯桶を手に持ちやってきた。公言通り、彼女はこの戦場でユリアを磨き上げることに心血を注いでいる。
「ああ、ありがとう」
 装飾品を外し服を脱ぐと、女神を演じる重圧から開放された思いがしほっとした。ダーナが湯を浸した布で背中を拭いてくれる。
 身体を拭き終わると、次に髪を洗った。川の近くに陣営を張っているとはいえ、戦場では水は貴重なので無駄遣いは出来ない。なるべく少ない湯で済ますようにしている為、髪が短くなったことも、この時ばかりは寧ろ良かったとさえ思う。
 夜着に着替えてダーナに髪を梳いて貰っていると、突然天幕の外でがさりと音がした。
「―――誰だ…!」
 問うたが答える者はいない。だがユリアの居る天幕のすぐ近くに、何者かが居る気配がした。兵士達は見張りの者を除いては、皆各々の天幕で休んでいる筈だ。それでなくとも、こんな夜更けにこの天幕を訪ねてくる者など、余程火急の用でも無い限りいないだろう。
「誰だ、ティヴァナの者か…!」
 相変わらず外は静まり返っている。ディヴァナから逆に襲撃を受けたのならば、もっと騒がしくなるだろう。ならば刺客でも送ってきたか―――。
 ごくりと唾を飲み込むと、ユリアは思い切って天幕の入り口に向かった。
「あ、ユリア様……」
 ダーナのか細い声がユリアを止めようとしたが、人差し指を口に当て、静かに、と身振りをして見せる。
 恐怖は覚えたが、ティヴァナの刺客ならばユリアを襲いに来た訳ではない筈だと自らに言い聞かせた。幾ら邪魔に思ったとしても、ティヴァナの者はフィルラーンを殺しはしない筈だ。
 ―――だが、本当にそうだろうか。
 入り口に垂らされた幕を捲ろうとして、手を止める。
 ティヴァナの者の中にも、信心が薄い者だとて居るのではないだろうか。現にラオやクリユスもティヴァナ出身だが、信心深いとはとても言えないではないか。ならばそういう者が刺客となり、邪魔なフィルラーンを襲おうとすることも有り得るのではないのか? 戦場で危害を加えては自軍の兵にも動揺を与えるが、ひっそり始末するのであれば、ティヴァナには何の影響も無く済むではないか。
 余計なことを考えてしまったせいで、恐怖が強まり身体が動かない。けれど狙いがハロルドや他の兵士なのだとしたら、早く彼らに知らせなければ。
 外に居る何者かが、再びごそりと動いた。
(ああ、ジェド――――――)
 思わず心の中で、彼の名を呼び助けを求める。そんな自分に、こんな時はいつもジェドが助けてくれていたことを、今更ながらに痛感した。
面倒そうな顔で、あるいは不機嫌そうな顔で。それでもユリアの身に危機が迫った時は、必ず駆けつけてくれていた。そして決まってその後にユリアを叱るのだ。お前は油断し過ぎなのだと。
 それでもいい。叱られても詰《なじ》られてもいい。怒鳴られても冷たい目を向けられても、何をされてもいいからジェド。
―――――――お願いだからいつものように、私の前に現れてくれ。

 だがどれだけ神に祈っても、ジェドはユリアの前に姿を現すことは無かった。ここは自分で何とかするしかないのだ。
 ユリアは思い切って幕をめくり、外に顔を出し叫んだ。
「そこに誰か居るのは分かっている、おまえはティヴァナのも――――……………」
 そこまで口にし、ユリアは言葉を失った。松明の明かりに照らされ、その“何者”かが闇の中から姿を現す。それはティヴァナの兵士でも、フィードニアの兵士でもなかった。
「鹿………?」
 先程まで草を食んでいたそれは、ユリアの声に驚き弾かれたように逃げていく。ユリアを怖がらせた刺客は、陣営の中に紛れ込んだ野生の鹿だったのだ。
「な、なんだ……」
 一気に力が抜け、ユリアはその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。ダーナが慌てて駆け寄ってくると、助け起こすようにユリアの手を取った。
「大丈夫ですか、ユリア様」
「ああ、大丈夫だ。ちょっと安心したら気が抜けただけだ。鹿相手にあれほど緊張していたとは、笑ってしまうな」
「けれど鹿で良かったです、何も無くて安心しましたわ」
「そうだな……」
 ダーナの手を借り立ち上がると、ユリアは辺りを見回した。見張りの者がちらほらと居る以外には、誰もいない。どれだけ探したところで、やっぱり彼女が探し求める者の姿は無かった。
「ふふ……ふ」
 ユリアの口から、乾いた笑みが漏れる。

 ああ――――けれどダーナ、私は気付いてしまった。ジェドが本当に、私の傍からいなくなってしまったのだということに。
 どれだけ呼んでもジェドは答えてくれない。助けに来てはくれない。
 この暗闇の先のどこにもジェドがいないことに――――私は、気付いてしまったんだ。












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