166: 再び戦場へ 「ユリア様、頼まれていたものが出来上がりました」 塔の侍女が白い布を手にユリアの部屋へやって来た。それを受け取り確認すると、ユリアは頷く。 「ありがとう、時間が無いのによく間に合わせてくれましたね」 礼を言うと恐縮したように頭を下げ、侍女は下がっていった。 「まあ、それは何なのですか?」 覗きこんで来たダーナに、ユリアは悪戯っぽく笑う。 「んー…今はまだ、秘密だ」 「まあ、そのように言われますと、余計に気になりますわ」 拗ねた口調で言いながらも、手はてきぱきと働き荷袋へ次々に荷物を詰めていく。 「ダーナ、今回は一日でも速く戦場へ行く為に、馬車は使わず馬に騎乗して行くとクリユスが言っていた。なるべく荷は少なくしてくれないか、服の替えなど1、2枚もあれば十分だろう」 膨れる荷袋に呆れながらそう言うと、とんでもない、とダーナは首を横に振る。 「これでも厳選して随分減らしておりますわ。それに服の替えが1、2枚ではとても足りません。戦場で毎日洗濯が出来るとは限りませんし、ユリア様の衣装は純白ばかりなので、すぐ汚れてしまいますから」 「いや、別に服くらい汚れたっていいではないか。戦場では皆泥だらけなのだ、皆と同じく泥まみれになったからといって、何を恥じることがあるんだ」 そんなことを気にしていては、戦場になど行ける筈も無い。そう思ってのユリアの主張に、ダーナは溜息と共に首を横に振った。 「ユリア様、失礼ながらユリア様は、何の為に戦場へ向かわれるのですか。貴族の娘が物見遊山に行くのであれば、埃だらけになろうと泥だらけになろうとお好きになさればいいでしょう。ですがユリア様は“戦女神”として参るのです。ならば常に神々しく、輝いた存在でいなければならないのではありませんか。己を通し神の姿を皆に見せようとする者が、日々汚れていく様を兵士達に晒して、どうするというのです…!」 目を吊り上げ捲くし立てるダーナに、ユリアは黙った。余りにも正論で、反論する言葉を持たなかった。仕方が無い、こういうことは昔からダーナには勝てぬのだ。 「だからユリア様、今回も私は共に付いて参りますわ。ここで留守番していろなどとは、言わないで下さいませね。ユリア様を埃一つ無い“戦女神”として光輝かせるのが、私の責務であり使命なのです。私はユリア様に巻き込まれて戦場へ行くのではありません、私は私の出来得る術で、皆様と共に戦うのです」 決意に満ちた目で言われ、先に釘を刺されたことにユリアは苦笑する。以前の訪問で、ティヴァナは信仰が厚い国だということは分かっている。故にどれだけ戦況が厳しかろうと、フィルラーンであるユリアの身に危害が及ぶことは、恐らく少ないだろう。だがダーナに関しては、その限りではない。ダーナをこの国に留めておくには、どう言って彼女を説得したものかと思案していたのだ。だがそこまで言われてしまっては、止めることなど出来ないではないか。 「ああ…分かった、宜しく頼むよ、ダーナ」 肩を竦めそう言うと、ダーナは満足そうににこりと微笑んだ。 王に出立の許可を貰い、荷造りを負えてナシスに挨拶をしに行くと、彼はユリアを眩しそうに見た。 「また戦場へ行くのですね。……止めても、無駄なのでしょうね」 「はい、フィルラーンとしては異端でしょうが、こんな私にも役立つことがあるのなら、出来る限りのことをしたいのです」 「それに、ジェドを探したい……?」 彼には全てお見通しのようだ、ユリアが頷くと、ナシスは何か言いたそうな目を向ける。ナシスにはジェドの行方が分かっているのだろうか。そう思うと胸がざわめいた。ジェドの行方や、生死を。 「ジェドは……」 そこから先の問いを、口にすることは出来なかった。ジェドは無事ですか? 生きていますか? けれど万が一にも否と言われたらと思うと、恐ろしくて聞くことが出来ない。 ナシスはそんなユリアの逡巡を知ってか知らずか、複雑そうな表情でユリアの手をそっと取る。 「どうか、どんな苦境の時も希望は失わないで。貴女は、貴女らしく居て下さい」 「は…い」 それはどういう意味なのだろう。ナシスには何が見えているというのだろう。問いたいことは山ほどあるが、やはり口には出てこない。いや、問うたとしても、ナシスにはもうそれ以上のことをユリアに聞かせるつもりは無いようだった。ユリアから手を放すと優しく微笑み、気をつけて、とただそれだけを口にした。 ユリアは頭を深々と下げると、部屋を辞した。次にここへ戻ってくる時には、良い報告ができるといいのだが。 いよいよ出立の日、クリユスは数人の兵士を連れユリアの元へやって来た。目立つことを避けるため、護衛の数は最小限に抑えたのだそうだ。それに先だって聞いていた通り、今回は急ぎ戦場へ戻らねばならぬ為、馬車は使わず馬に騎乗しての旅となる。 「乗馬なんて随分久しぶりで、上手く乗れるか心配ですわ」 貴族の嗜みとして、ダーナは世話役になる前に乗馬を習っていたようだ。しかしユリア自身は乗馬の経験というものが殆ど無い。故にクリユスが騎乗する馬に共に乗せてもらうことになっている。こんなことなら、ロランに剣の扱いだけではなく乗馬も教えてもらえばよかった。 途中船に乗り、そして再び馬に乗り換え、ユリア達は八日後にフィードニアの陣営へ到着した。国境線付近は既にティヴァナに押さえられ、クリユスが戦場から離れたときよりも、フィードニアの陣営は随分後方へ下がってしまったようだった。 「よく来て下さいました。再びユリア様の御手を煩わせることとなり、誠に不甲斐ない我らをお許しください」 日が暮れ、陣営に戻って来たハロルドが、ユリアの顔を見るなり頭を下げた。その様子に気付いた兵士達もまた、こぞって駆け寄ってくる。途端にユリアの周りは人だかりとなった。ユリアは皆を見回すと、ゆっくり息を吸い込み声を上げる。 「皆さん、この厳しい戦いをよく耐え抜いてくれました。ジェドが負傷し戦線を離脱しているのは皆知っての通りですが、不安に思うことはありません、彼には神のご加護が付いています。無事回復し、再び戦場へ戻ることを私が約束します。だからそれまであと少し、どうか耐えて下さい」 ユリアの言葉に、兵士達の顔が明るくなっていく。ユリア様がそう言うのなら、ジェド殿は無事回復なさるに違い無い。そう皆が頷きあっている。神の代弁者としての役も、随分様になってきたと我ながら思う。詐欺師のような自分に、自嘲せざるを得ない。 だが、これだけでは足りないことなど、ユリアには分かっている。きっとハロルドやクリユスにも分かっている。ジェドという存在が居る上での神の言葉ならば十分皆を鼓舞させることになっただろうが、実質的な力を失くした今、ユリアの言葉など兵士達への気休め程度のものにしかならないだろう。だから強大な力は、既に己達の手の中にあるのだということを、彼らに気付かさせねばならぬのだ。 そして微力ながらもそれを手助けする目算が、今のユリアにはあった。 「クリユス、手が足りぬだろうが、私に乗馬を教えてくれる者を寄越してくれないか。どこに居るかも分からぬジェドを探すには、やっぱり馬に乗れないと不便だからな」 「ならばユリア様にお付けする護衛の者に習うといいでしょう。ですが馬に乗れるようになったとしても、お一人でこの陣営の外へ出るようなことはなさらないで下さい。いいですね」 ここは素直に頷いておく。 「分かっている、一人で軽はずみに外へ出るようなことはしない。それとあともう一つ、頼みがあるのだが……」 「なんでしょう」 「軍議を行う時は、私も同席させて欲しい。戦況を私も把握しておきたいんだ」 「ユリア様、しかしそれは……」 難色を示すクリユスに、ユリアは食い下がった。 「皆の邪魔はしない。戦場が綺麗ごとだけでは無いことも分かっている。非道な戦略を立てたとしても、口出しはしないと誓う。だからお願いだ、クリユス。状況が分からず不安でいるのは嫌なんだ」 「………分かりました。そこまで仰るのでしたら、同席出来るようハロルド殿に話しておきましょう」 クリユスは些かいぶかしむ様な視線を寄越したが、ユリアは気付かぬ振りをして礼を言い、にこりと笑った。 ユリアが戦場へ来てから既に半月以上が経った。戦況は一進一退。ユリアの登場に慰められた兵士達は、幾分かの士気を取り戻してはいたが、やはり精彩は欠いたままだった。 毎日乗馬の訓練に勤しむユリアは、ようやく一人で馬に乗りこなせるようになった。といっても、障害物がある場合にそれを飛び越えることはまだ出来ず、迂回するしかないのだが。 ダーナの働きにより、戦場においてもユリアの服はいつでも白く清らかで、狙い通りにそれが神々しさを演出していた。ユリアに用意された馬もまた白く、騎乗するユリアは戦女神そのものだと兵士達は口々に言う。それを聞く度にダーナが満足そうに笑むのは、言うまでも無いことだ。 ジェドは相変わらず行方が知れないままだった。諜報部隊が探し回ってくれてはいるが、手がかりとなるものさえ出てはこない。ユリア自身で探しまわるには、一旦戦況が落ち着いてからでなければ危険だと止められている。当分は無理だということだ。 軍議への参加は許しを得て、毎日のように皆が集まる天幕へ足を運び、彼らの話に耳を傾けた。ユリア自身が発言することは無い。ただじっと聞き入っているだけだ。最初はユリアの存在に戸惑っていた者達も次第に慣れ、彼女の存在を気にしなくなった。 「最前線を守る重装備隊が堅く、そこを突破することが中々出来ません」 その日の軍議の、専らの議題はそれだった。 ティヴァナ国王軍総指揮官であるテガンが直に育て上げた部隊だ、弓部隊で総攻撃をしかけても、ブノワ率いる歩兵隊が総力を持ってぶつかっても、なかなかそこを切り崩すことが出来ない。そこで手間取っている間に、後方から弓部隊や騎馬隊が躍り出てきて、こちらに大打撃を与えた後に、風のように後方へ立ち去っていく。その繰り返しだ。 「では、私の部隊が加勢します」 第二騎馬中隊長マルクがそう志願したが、ハロルドは首を横に振る。 「長槍を持った重装備隊に、騎馬隊が突っ込んでいくのは分が悪い。それにこっちもお前の中隊を外せるほどの余裕は無いぞ」 「ですが現状の陣形のまま戦っていても、状況は良くなりません。せめてあそこの一角だけでも切り崩すことが出来れば……」 「そんな事は皆分かっている、だがその手立てが無いのだ」 喧々諤々と言い合ってはいるが、中々妙案が出てこない。ここにジェド殿が居てくれていれば。そう皆が心の底で思っていることが、ありありと分かった。 「――――ではその役目、私が担おうではないか」 重い空気を裂くように、異質な声が割って入った。 ぴたりと皆が口を閉じ、声がした方へ視線をやる。その顔は皆、聞き間違えかといぶかしむように眉が顰められている。 ユリアは微笑むと、皆の顔を見回してから、もう一度ゆっくりと口にした。 「私がその一角とやらを切り崩してやる。戦女神の起こす奇跡を、皆に見せてやろうではないか」 |
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