165: 知らせ





 ユリアの髪を櫛で梳きながら、ダーナは溜息を吐き手を止めた。
「どうした、ダーナ」
 問うと、ダーナは途端に目を潤ませる。
「ああ、折角美しい髪だったというのに……」
 前はお尻が隠れるほどの長さにまで伸ばされていたユリアの髪が、今は肩に付くくらいの位置で切り揃えられている。以前城下街で命を狙われた時、何とか逃れて命は助かったものの、ユーグは代わりに彼女の長い髪を切り取り去っていった。あれはいったい何だったのか。
 ユーグの意図は分からぬが、それでも命を奪われるよりは随分マシだろう。そうユリア自身は思うのだが、ダーナはあれから一月以上経った今でも悔しがり、怒りを露わにしている。
「そう悔しがらずとも、髪なんかすぐに伸びる」
「まあっ、そういう問題ではありませんわ。髪は女の命だというのに、それをこのように……」
 言いながらはらはらと涙を流し始めるダーナを一生懸命宥めるのは、既にユリアの日課と言ってもいい程だ。これではどちらが被害者なのか分からんなと、ユリアはこっそり苦笑した。
 やっと泣き止んだダーナの手を借り着替えを済ませた所で、ユリアの居室の戸が叩かれた。ダーナが出ると、塔の侍女が来客を告げる。相手の名を聞き、ユリアはダーナと顔を見合わせた。現在、最前線でティヴァナと戦っている最中さなかな筈の、クリユスだったのだ。

「――――ユリア様。良かった、ご無事で何よりです」
 急いで客間に行くと、そこで待っていたクリユスは、顔を見合わせるなり安堵の表情を見せた。戦地帰りの男相手に、普通ならば心配するのはこちらの方である。もしかしたら、ユーグに襲われた話を誰かに聞いたのだろうか。
「しかし、その髪は……やはり、貴女のものでしたか。美しい髪だったものを、おいたわしい」
 クリユスは独り言のように呟きながら、短くなったユリアの髪にそっと触れると、切なげな表情を作る。
「やはり私のものとは、何のことだ?」
 問うたが、クリユスは珍しく言いよどみ、何でもありませんと誤魔化す。その様子にユリアはどこか不穏なものを感じ、胸騒ぎを覚えた。
「それで、どうしたんだ。お前一人で戻って来たのか?」
「はい、そうです。貴女にお伝えしたいことがあり、私一人で戻って参りました」
 そこまで口にし、やはり言い難そうにする。
「何なんだ?」
 焦らされると余計不安になる。先を促すと、クリユスは意を決したようにユリアの目を見た。
「ユリア様、落ち着いて聞い下さい。ジェド殿が―――深手を負われ、その後行方不明なのです」
「――――え?」
 後ろでガチャンと陶器が割れる音がした。ダーナが茶を淹れていたが、茶器を取り落としたか何か粗相をしたらしい。
「ジェドが―――何だって……?」
 深手を負い、行方不明。言葉を反芻してみても、頭の中に入ってこない。
「仔細は省きますが、恐らく命に関わる程の怪我を負われております。敵軍に囲まれ単身攻撃を受け続け、ついには落馬した所を見たという者も……。あの身体でそう遠くへは行けぬと思うのですが、諜報部隊が辺りを隈なく探しているにも関わらず、半月経った今でも見つかっておりません」
「そんな……」
 クリユスが何を言っているのか、一向に理解出来ない。あのジェドが敵に倒された? そんな、馬鹿な。
「ご無事でおられることを皆祈ってはおりますが、正直のところ……その可能性は最早、低いのでは無いかというのが皆の見解で…」
「嘘だ…!」
 堪らずクリユスの言葉を遮った。首を横に振り、そんな筈が無いと否定する。
「あの男が死ぬ筈が無い。皆も言っていたではないか、神ですら殺せぬ男だと」
 声が震えた。いや、身体も震えている。血の気が下がり、目の前が暗くなっていくのを、ユリアは必死に耐えた。
「無事に帰ってくるって、約束したんだ。ジェドは約束を違えるような事はしない。絶対帰って来るに決まっている」
 この命はお前に預けると、少しだけ笑みながら言ってくれた。お前の命は私のものなのだろう? ならば勝手に失くしたりなどしない筈だ。
 あの男が帰ってきたら、もう一度ちゃんと自分の気持ちを伝えるのだ。去っていくあの背中が最後だなんて、そんなことがあってたまるものか。
「ユリア様……」
 ダーナが傍に来て、そっとユリアの背中を撫でた。自身も蒼白とした顔色になっているというのに、それでもユリアを気遣うように傍に寄り添ってくれる。大丈夫だ、私は倒れたりはしない。ジェドが死ぬ筈が無いのだからと、そう己に言い聞かせた。
「そうですね…私だとて、ジェド殿がそう易々とこの世から消える方だとは思っておりませんよ。きっとどこかに身を隠しておられるのでしょう。傷を負った所を人に見せぬなど、野生の獣のような方ですね」
 そう苦笑してみせるクリユスに、ユリアは幾分かほっとした。
「そうだろう、たまには人を頼ればいいものを、困った男だ。心配する側の身にもなれと、戻ったら叱ってやらないとな」
「私は出来かねますが、どうぞ存分にユリア様がお叱りになって下さい」
 軽口を言い合っている間に、少し冷静になってきた。深手を負ったとはいえ遺体が見つかった訳では無く、ただ行方が知れぬ状況だというのならば、まだ希望はある。きっと無事だ、そうに決まっている。
「――――それで、お前がわざわざフィードニアに戻ってきた理由はなんだ。ただジェドの悲報を告げに来た訳ではないだろう」
 気を取り直して顔を上げると、クリユスは肩を竦めた。
「お分かりですか」
「私は馬鹿では無いつもりだぞ、クリユス。……ジェドが行方不明になり、兵士達はさぞ動揺していることだろう。士気が下がっているのだな」
「その通りです」
 言いながら、クリユスは表情を兄としてのものから軍人としてのそれへと変えた。
「ジェド殿はご無事で、現在フィードニアの陣営で治療中と皆には話しているのですが、半月以上姿さえ見せぬとなると、流石に誤魔化しきれなくなってきました。顔だけでも見せてくれと言って来る者もおりますが、動ける状態ではないと説明すると、それ程に重症なのかと余計に不安を与えてしまう始末で……」
 ただでさえ押され気味だった戦況が、ジェドの負傷による士気の低下で、更に悪くなっているらしい。フィードニア軍の陣営も随分後方へ下がり、このままでは旧トルバの国境地帯はティヴァナに明け渡さねばならなくなる。
「つまり、再び私に戦女神を演じろというのだな」
「……我等が不甲斐ないばかりに、申し訳ありません」
 頭を下げるクリユスに、ダーナが血相を変え割り込んできた。
「お待ち下さい、駄目です、そんなの。現在の戦況は厳しいのですよね。そのような危険なところへ、ユリア様を行かせる訳には参りません…!」
「勿論安全とは言えませんが、ユリア様は我々が全力でお守りします」
「ですが以前戦場へ行った時も、とても危険な目に会われたのです。その時はジェド様がお助け下さいましたが、今回はそのジェド様がいらっしゃらないではありませんか。兵士の皆様にお心の余裕が無いというのに、ユリア様をお守りする余裕があるとは思えませんわ」
 的確な指摘にクリユスは困ったように眉を下げる。
「これは手厳しい、反論の余地もありません。確かに危険な目に会わせることもあるでしょう。故に強制は致しません、あくまでも我々はお願いに参ったに過ぎぬのですよ、ダーナ様」
「でしたら、お戻りになって断られたとお伝え下さいませ」
「ちょっ…ちょっと待ってくれ、ダーナ」
 要請を厳しく撥ねつけるダーナに、ユリアは慌てて口を挟む。
「私は戦場へ行くよ、ダーナ。そもそもジェドがいなくとも戦い抜ける強い軍を望んだのは、この私なんだ。実際に今のフィードニア軍は強い。今はジェドの不在に動揺しているだけで、強い心を取り戻すきっかけさえあれば、ティヴァナとだって互角に戦えるんだ。そうだろう、クリユス」
 水を向けられたクリユスは、強く頷いた。
「はい、その通りです。フィードニアはまだ十分にティヴァナに対抗できる力を持っています。戦いに勝利するまでとは申しません、兵士達の士気が戻るまで、皆の傍にいてやっては頂けませんか」
「けれど…っ」
 なおも反論しようとするダーナを、ユリアは手で制する。
「ダーナ、私はもう行くと決めたんだ。本音を言うと、フィードニアの為だけではない。私は戦地へ行ってジェドを探したいんだ。だがら私の我侭を許してくれないか」
「ユリア様……」
 納得はしていない様子だったが、それでもダーナはそれ以上反論はしなかった。クリユスが恭しく頭を下げる。出発の準備や王の許可を取るため、出発は三日後となった。


















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