159: ジェド3





 少年はついこの前閉じ込められたばかりの、牢代わりの小屋に住む事になった。嘗て母だった女は少年と共に暮らすことを拒絶したそうだが、彼にとってはもうどうでもいい事だった。その小屋は村から外れた場所にひっそりと建っている為、人と関わらずにすむ。居心地は悪くは無かった。
 少年は化け物として、その村に君臨していた。村の皆は少年を避け、この小さな化け物がいつ暴れるものかと怯える日々を過ごすこととなった。他所の土地へ逃げる者もいたが、大半は他に行く充てなど無い者達ばかりだ。
 食事は一日に一度、村の女達が交代で運んで来て、戸の外に置いて帰っていく。その食事にはたまに毒が入っていたので、一口食べて数刻の間何も無ければ残りを食べる。一口食しただけでも毒が入っていれば苦しむことにはなるが、次第に慣れた。今更これ以上怒りが増える訳でもない、どうせいつか殺す奴らなのだ。好きに足掻けばいい。
 心一つで村を潰すと言った言葉は、脅しでも何でもなかった。
 少年の腹の中には、怒りや憎しみが沈殿し、渦巻いている。この村の者達を全て殺したところで、罪悪感など微塵も感じないだろう。先に少年を殺したのは村人の方なのだ、やり返して何が悪いというのか。
 義父に殴られ続ける少年を、この村の者達が見て見ぬ振りをしていたことを知っている。毒を飲まされたことも、谷に捨てられたことも、三日三晩内臓を焼かれる苦しみを味わったことも、忘れることは無いだろう。
 ただこの村の人間を皆殺しにした所で、怒りが冷めるとも思わなかった。この村を喰い潰し、他の村も喰い潰し、更にはこの国全てを喰らい尽くしでもすれば、この怒りは冷めるだろうか。この心の飢えは満たされるだろうか。ケヴェル神が嘗て獣であった頃、怒りのままに目に付くもの全てを破壊していったように。
 それもいい考えのように思えた。そうすれば、このくだらない世の中もいっそすっきりするというものだ。

 それから数ヶ月経ったある日、リョカ村にナシスという名のフィルラーンが来た。ナシスは少年を見ると急に顔を青ざめさせ、「あなたはいずれこの国を滅ぼすことになる」と予言した。だからなんだ、この世は奪える力を持つ者が、持たぬ者を踏み躙るように出来ているんだろう? それの何が悪いんだ、と逆に問うと、驚いた顔をしていた。
 少年はそれがこの世の真理なのだと悟っていた。偉そうに輿に乗りかしずかれているくせに、そんなことも知らないとは、おかしなものだ。
 だが先読みの力を持っているというのは本当らしい。少年がそうしようと思い描いていた己の行く末を、ぴたりと当ててみせたのだから、詐欺の類では無いようだった。
 異質な力を持っているのは同じだというのに、片方は殺されかけ、片方は傅かれ大事にされる。幾ばくかの理不尽さは感じたが、それさえも全て壊す力を己は持っているのだ。羨む気持ちなど、今更沸き起こりはしない。
 ナシスの予言通り、あと数年の月日が経ち青年になった頃、自分は目に映るもの全てを破壊し続けるだろう。この国を滅ぼし尽くすか、その前に誰かがこの俺を殺す日まで。

 少年のどうしようもない憎悪と、ナシスが予言したこの国の破滅的な未来を変えたのは、たった一人の少女との出会いだった。
 勿論そんな事など、この時の二人には知る由も無いことだ。それは少年が化け物になってから約一年後、彼が十一歳になった頃の事だった。

 その日、少年がいつものように一人で剣を振っていると、金色の髪をした少女が、岩陰から遠巻きに少年を見詰めていることに気付いた。
 少年よりもずっと小さな女の子は、あどけない顔をしてこっちを見ていた。こんなに綺麗な金の髪を見たのは初めてだった。一瞬、天の国から来た子供かと思った位、輝いて見えた。
「―――なんだ、お前は。見世物じゃ無いぞ、どっかへ行け」
 冷たく言い放ってやったのに、少女は少年と目が合うと、にこりと笑顔を見せた。
「わたし、ユリア。十日前にこの村に来たの。ねえ、もっと見ていちゃだめ?」
 少女は真っ直ぐに少年を見上げた。自分に対して、そんな風に笑顔を向けられたのは初めてのことだった。どきりとしたが、少年は剣を鞘へ納めると、黙ったまま少女に背を向けた。
 向けられた笑顔をそのまま信用することなど、少年には出来なかった。優しい言葉を信用し、母に毒を飲まされたのだ。心を許せるものなど、この世の誰一人として居りはしない。相手がどれだけ無垢に見える子供だろうと、それは同じだった。
 次の日もその次の日も、少女は現れた。こっちは無視をしているというのに、何が楽しいのか、にこにこと笑顔を見せながら少年をじっと見詰めている。少年はその少女の笑顔を見る度に、何故だか分からないが無性に苛々とした。
 この世の醜さなど何も知らない、幸福そうなその顔が腹立たしいのだと、少年は思った。この世界はそんな風に瞳を輝かせるモノなど何もありはしない。だというのに、そんな事も知らずに無垢に笑っている少女が不愉快で仕方が無いのだ。この時少年は、そう結論付けた。
 ―――ならば教えてやればいい。この世界には理不尽な悪意が満ち溢れているという事を。
 少年は少女に向かい、剣を投げつけた。剣は少女の体すれすれを飛び、すぐ傍の地面に深々と突き刺さった。少女は驚きの余り、尻餅を付いて体を固まらせた。本物の剣だ、僅かに動けば死んでいたかも知れぬのだ、恐怖を感じぬ訳がない。
「死にたくなかったら、もう二度と俺の周りをうろつくな。いいか、今度ここに来たら次はその剣を当ててやるからな……!」
 脅しの言葉で怒鳴りつけてやったが、少女は真っ青な顔で固まったまま動かない。少し脅かし過ぎたかとも思ったが、これで二度とこいつがここへ来ることも無くなるだろう。これでいいのだ。
 これでいい、と思っているのに、どこかもやもやが晴れなかった。予想通り少女はその日から少年の前には現れなくなった。それは彼自身が意図したことだというのに、何故だか心が重苦しく、少女の驚き青ざめた顔が何度もチラついて離れなかった。
 かさりと物音がし、思わずそちらへ振り返ると、兎が草むらから飛び出してきた。あのユリアという名の少女かと、一瞬でも思った自分に驚いた。
 ―――馬鹿じゃないのか。何を期待しているんだ。あんな酷い事をしてまで自分で追い払ったのに、またここに来ることを期待しているのか。
 愚かしいにも程がある。あんな小さな子供が気まぐれに見せた笑顔に縋るほど、自分は弱い人間ではない筈だ。そう自分を納得させようとしても、それでもあの少女の笑顔が頭から消えなかった。
 それが何故なのか、本当は少年には分かっていた。彼は他人に期待することが恐ろしかったのだ。あのきらきらとした笑顔を一度受け入れてしまったら、それを失った時の絶望感に、もう耐えられはしないだろう。それくらいなら、最初から何も望まない方がいい。
自分はこれまでも、そしてこれからもずっと一人だ。そう、それでいいんだ。
「―――お兄ちゃん」
 ふいに聞こえた声に、少年は驚いて振り返った。ユリアだ。あの子供がいつものように、岩陰からひょこりと顔を出し、こちらの様子を伺っていた。幻聴でもなんでもない。確かにあの金色の髪の少女がそこに居る。
「なんで――――」
 なんで来たんだ?
 独り言のように呟くと、少女が慌てて近寄ってきた。
「あのね、わたし熱を出しちゃってね、それで何日かここに来られなかったの。どこも怪我はしてないから大丈夫なんだよ。ほら、見て見て!」
 ユリアはくるりと回って見せ、自分の無事を主張する。そんな事は分かっている。当てないように投げたのだから、怪我をしている筈が無い。
「あのね、わたしもっと離れて見るようにするから、もっと気をつけるから、お兄ちゃんの邪魔はしないから。……だから、また来ちゃだめ?」
 不安そうな顔で、少女は少年の顔を覗き込むように見上げた。
 あんな風に怖がらせたのに、どうしてこの少女は再びここへやってきたのだろう。そしてまたここへ来たいと言うのだろう。どうしてそんな風に、真っ直ぐに自分を見るのだろうか。
 今まで彼は周囲から、その存在さえも否定され続けてきたのだ。受け入れられることなど、求められることなど、初めてのことだった。
 体が小さく震えた。自分でもよく分からない激しい感情が少年を襲う。
「お兄ちゃん……?」
 少女がそっと少年の手に触れた。その掌は小さく、温かかった。
(駄目だ―――期待したら、駄目だ)
 そう思うのに、その小さな掌を振り払うことが、どうしても出来ない。
「――――もう、来ないかと思ったんだ」
 こぼれる様に呟くと、少女が驚いたような声を上げた。
「どうしたの、お兄ちゃん。おなかが痛いの?」
 突然おろおろとし始めた少女を、不思議な思いで見ていると「泣かないで」と言った。少年は、己の目から水がぽろぽろと零れ落ちていることに気付いた。
「なんだ、これ――――なんで目から水が落ちてくるんだ?」
 少年は物心が付いてから、泣いたことも無かった。己の異変に困惑していると、ユリアが少年の手をぎゅっと握り締める。
「大丈夫よ、大丈夫だから泣かないで」
 何を大丈夫と言っているのか分からないが、この目の前の少女が、自分を勇気付けようと必死になっている事だけは理解した。
「……お前、俺を心配しているのか? 他人の心配をするなんて、おかしなガキだな」
「ガキじゃないよ、ユリアだよ」
 少女はぷう、と頬を膨らませる。なんだかリスみたいだ。
「………ユリア」
 前に一度聞いてはいたが、初めてその名を口にした。名を呼ばれ、少女は満面の笑みを浮かべる。心の中に何か温かいものが注がれていくような感覚がした。この国を滅ぼす程に暴れたとしても、きっとこんな風に満たされることは無いだろう。
 ああ、そうか。たったこれだけのことで、人は喜びを感じるのか。たったこれだけのことを、自分はずっと求めていたのだ。そう、少年は思った。
「ねえ、お兄ちゃんの名前は?」
「ジェラルド」
 名を告げると、ユリアは首をかしげた。
「じぇ……じぇらりゅ―――じぇらう……」
 どうやらジェラルドという名は、少女にとってはまだ発音することが難しいようだった。
「……ジェドでいい」
 仕方なく短縮させると、再びユリアはにこりと笑った。
「ジェド!」
 不思議な感じがした。初めて使った呼び名だというのに、妙にしっくりとする。ユリアが口にしたその名こそが、自分の本当の名なのだという気がした。












TOP  次へ




inserted by FC2 system