157: ジェド1





 それは、金色の長い髪の束だった。
 ジェドが動きを止めると、ユーグはにやりと口の両端を吊り上げる。
「その様子だと、これが誰の髪か分かったみたいだね」
 クスクスと笑う男の声を、ジェドはどこか遠くに感じながら聞いていた。問われるまでも無く、これ程長い金の髪の持ち主など、ジェドの知る限りでは一人しかいない。
「……そいつを、どうしたんだ」
 押し殺した声で問うと、ユーグは勝ち誇ったように笑った。
「はは、それを決めるのはお前だろう。助けたいんなら剣を捨てなよ。言っておくけど、俺を殺したらその女も無事では戻らないよ」
 もしユリアの身柄がこの男の手の内にあるのならば、それは脅しなどではなく、言った通りのことになるのだろう。男を見据えながら、ジェドは無言で手にしていた剣を捨てた。
「へぇ〜〜……」
 剣を捨てろと言って来たのはこの男の癖に、ユーグはジェドの行動に驚きの表情を浮かべた。
「嘘だろう、まさかこんな簡単に言いなりになるとは思わなかったよ。この髪が偽物だとは思わない訳?」
「ふん…偽物を持ってきて、この俺を言いなりに出来ると思った訳では無いだろう?」
「まあ、確かにそうだけどさぁ……なんか、拍子抜けだなあ」
 これだったら、わざわざ苦労して本人を誘き出さなくても良かったよ、などとぶつぶつと呟いている。
 実際の所、ジェドにとってその髪が偽物だろうと、この男の話に嘘が混じっていようと、それらは全てどうでもいいことだった。ユリアに害が及ぶかもしれないという危惧が、例えほんの僅かな可能性でもあるのならば、この男に抗う気など微塵も起こらない。ただそれだけなのだ。
「ユリアには今後指一本触れるな。もしもあいつに何か害を加えたら、その時はお前の命一つで贖えるとは思うなよ」
「何言っちゃってんの、あんたはここで死ぬんだから、そんな風に凄んだって脅しにもならないっての。……ま、でもいいか、あんたが死んだらどうせその女に用なんて無いよ」
 もう既にユリアになど関心もなさそうに言う。恐らくそれは本心なのだろう。
「じゃあ、話は終わり。――――さっさと死んでよ」
 ユーグは金の髪を放ると、剣を抜き突進して来た。ジェドの目線は迫り来る男では無く、その髪に向けられている。束ねていた紐が解け、戦場に金の髪がはらりと舞った。

 ―――――わたし、ユリア。お兄ちゃんの名前は?

 その金の髪さながらに、光り輝くように笑う幼い少女の姿が、ジェドの脳裏に浮かんだ。
 遠いあの日、少女は彼の希望であり、幸福そのものであり、そしてこの世の全てだった。
















 少年の名は、ジェラルドといった。
 母は息子にその名を付けたとき、村の皆に「こんな田舎の小さな村の子供にしては大層な名だ」と言われたが、頑なに変えようとはしなかった。
 当時村一番の美人だと評判だった母は、たまたまこの小さな村に流れ着いた、傭兵を生業とする黒い髪の男と恋に落ちた。その男が甘い言葉と共によく口にしていたのが、「子供が生まれたら、ジェラルドと名を付けよう」だったのだ。
 しかし実際に腹に子が出来ると知ると、男は姿を消した。母は本気の恋だったが、相手の男はそうではなかった。まあ、よくある話である。
 生まれた子は母を捨てた傭兵とそっくりの顔立ちで、同じ黒い髪の色をしていた。母はその名に恨みを込めた。当然、その子を愛する気持ちにはなれなかった。
 母の口癖は「お前さえいなければ」だった。お前さえ生まれてこなければ、あの人は去って行かなかった。こんな不幸になってはいなかった。お前さえいなければ、私の器量ならもっと金持ちとだって結婚出来ていたのに。
 子持ちを承知で母と結婚してくれたのは、小さな畑を耕しながら細々と食っているだけの、決して裕福ではない男だった。
 それだけでも母にとっては十分不幸だったが、彼女を待っていた不幸はそれだけでは無かった。男には酒に酔うと暴れるという、悪癖があったのだ。
 そんな時、男の暴力を引き受けるのは、いつしか少年の役割になった。お前のせいでこんな男と結婚する事になったのだから、当然の報いだ。それが母の主張である。
 毎日殴られ続ける息子を、母は一度も庇わなかった。寧ろ暴力の矛先が己に向かわぬよう、夫に媚び、一緒になって少年を責めた。
「あんたってなんて気味の悪い子供なんだろう。その無表情な顔で恨みがましくこっちを見られると、ぞっとするわ。たまには笑って見せたらどうなんだい」
 ある日母がそう言って少年の頬を叩いた。確かに少年は、物心が付いた時から笑った事が無かった。
 しかしそう言われても、少年には笑うという事がどういうことなのかが分からなかった。そもそも楽しいということが分からなかった。他の人々はいとも簡単に笑い合っているのに、少年にはそれが何より難しかった。
 笑うことが出来ないから、母は自分を疎ましく思うのだろうか。笑うことが出来たら、母は自分に笑顔を向けてくれるのだろうか。そうしたら、母は自分を愛してくれるのだろうか。

 いつの間にか、少年は殴られることに慣れてきていた。男の拳を受ける時に、その方向と同じ向きに体を動かすと、幾らか痛みが減る事にも気づいた。避ける事は簡単だったが、一度拳を避けた時に、男が逆上して余計に手がつけられなくなったので、大人しく殴られた方が楽だと悟った。
自分が周りの人間よりも強いのだということに気付いたのは、七歳になった頃だった。
 親に疎まれる子の空気というものは他人にも伝わるようで、少年は村の子供達にも疎まれる存在になっていた。
 最初は同じ歳位の子供らが、少年を苛めにかかった。悪者退治などと称し、木の枝を持った子供達が少年を囲ったのだ。家では大人しく殴られているが、こいつらにまで大人しくしている義理などない。同じく木の枝を拾い抵抗したら、あっさりと撃退してしまった。
 しかし子供達はしつこかった。今度は自分達よりも年上の子供を連れて来て少年を襲った。しかし少年はその子らも撃退した。するとまた更に年上の子供達を連れて来る。それが何度も続き、最後には青年と言っていい程の歳の男達がやってきたが、それでも少年には敵わなかった。
 少年は村の皆に、手の付けられない暴れ者だと言われるようになり、丁度その頃から義父は少年を殴らなくなった。変わりに夫婦は、少年に忌むものを見るような目を向けるようになった。
「ああ、私は化け物を生んでしまったんだわ。あんな子を産んでしまったおかげで、私まで皆に責めるような目で見られるのよ。神様はどうして私ばかりこんな目に合わせるのかしら」
 そう毎日のように嘆く母を見て、少年は己の誤りを知った。自分は村の子供達にも、大人しく殴られておくべきだったのだ。だが今更後悔したところでもう遅い。母の心は更に少年から遠ざかっていた。
 
 ある事件が起きたのは、少年が十歳になった時だった。
 村人からも両親からも煙たがられている少年は、いつも村の外れで一人、剣の稽古をしていた。剣といっても本物がある訳ではない、木の枝をそれらしく削った木刀を、一人で黙々と振っているだけだ。己が強くなることを、この村の誰もが喜んでいないことなど知っていたが、それでも一人で出来ることといったらそれしかなかったのだ。
 その日もいつもと同じように、少年が村外れで木刀を振っていると、見知らぬ男が二人、こそこそと村の様子を伺っていることに気付いた。男達は手に剣を持っている。左腕には蜥蜴の刺青が入っていた。
 最近、各地で暴れている盗賊団がおり、その男達が皆そのような刺青をしているという話を、聞いたことがあった。女は連れ去られ、男や老人、子供は容赦なく殺されるという。その残虐性で、今最も恐れられている盗賊団だ。
 しかしあくまでも村の男達がそう噂しているのを耳にしただけに過ぎず、確かでは無かった。しかもその盗賊団が暴れているという場所は、この村よりもずっと遠いところの話だ。男二人は直ぐに村から去って行った。単なる気のせいかもしれない。だが、少年はどこか気に掛かった。
 少年はその夜家から抜け出し、蜥蜴の刺青の男を見た村の外れで、じっと身を潜めていた。気のせいなら良い。だがあれが盗賊の下見なのだとしたら、近いうちに襲撃がある筈だった。
 この村に戦える者達はいない。領主が持つ警備兵を要請したとしても、派遣してくれるまでには数日は掛かるだろう。それでは間に合わないし、そもそも少年の言うことを、村人が信じるとも思えなかった。ならば自分がこの村を守るしかないのだ。
 この時の少年は、自分が盗賊団を倒せるとは微塵も思っていなかった。村人達よりは腕が勝るとはいえ、剣を持つことに慣れている者達相手に敵うほどの腕が自分にあるとは思っていなかったのだ。ただ、騒ぎに気付いた村人達が逃げる位の時間稼ぎが出来れば良い、それだけだった。
 少年が闇夜に身を潜めてから、二日目の夜に彼らはやって来た。
 ひっそりと村に近付いて来た男達は、十数人程度だった。その凶暴性から想像するよりは少ない人数だったが、戦うことを知らぬ村人達を襲うには、それで十分なのだろう。
 少年がすっと彼らの前に現れると、男達は一瞬ぎょっとしたように立ち止まったが、相手が年端も行かぬ子供だと分かると、にやにやと笑いだした。
「なんだ、坊主。こんな夜更けに一人出歩くなんざ、悪ガキだなあ、おい」
「家出でもしようってのか。そりゃあ運が悪いなぁ、もっと早く出てりゃあ俺達に出くわさずにすんだのによ」
 がはは、と笑いながら、男の一人が少年に手を伸ばそうとした。その瞬間に、少年は一番手前の男に近付くと、相手が腰に付けている剣を、するりと抜き取った。そしてそれを、そのまま振り上げ思い切り喉元に突き刺した。肉と骨を断つ鈍い感触がし、男は目を剥き倒れた。
「この、ガキ……!」
 盗賊達はとたんに目の色を変え、各々手にしている剣を抜いた。少年は死体から剣を引き抜くと、更に隣の男の首を掻き切った。襲い掛かる剣を弾き、身を屈め男達の間を素早く駆ける。そして足を絶ち動きを止めると、腹を突き刺す。剣はすぐに脂に塗れ切れ味が悪くなった。拭いている余裕は無いので捨て、既に死体となった他の男から奪い取る。
「お前ら、こんな小僧に何をぼやぼやしてやがる……!」
 この盗賊団の頭らしき男が、他の男を払いのけ、憤怒の形相で少年の前に立った。他の男達よりも大きい体躯をしている。
 頭は大きな剣を振り回した。慌てて体を捻り避けたが、髪がひと房切り落とされた。あと少し遅かったら、頭をカチ割られていた所だ。だが、勝てない相手ではない――――。
 この短い戦いの間に、少年は己の力量がこの盗賊団よりも勝っている事を感じ取っていた。母が自分のことを化け物と言うのも当然かもしれない。戦いながら少年は、まるで自分が獣になっていくかのような感覚に陥った。
 盗賊の頭は体が大きい分力も強そうだが、少年よりは動きが素早くなかった。剣も大振りだ。捕まらないよう縦横に走り回り、相手が体のバランスを崩した時に、すかさず足を切りつけた。片足が崩れた所で背中を刺し、地面に倒れたところで首を撥ねた。
「ひいっ……、こいつ…化け物だ……!」
 残る数人が、恐怖の目を少年に向けた。そちらへ向かおうとすると、男達は剣を捨て、慌てて逃げていった。その場に残るのは死体のみ。少年はたった一人で盗賊に勝ったのだった。
「………!」
 安心した途端、急に吐き気がし、少年はその場で胃の中のものを全て吐いた。血と脂の臭いがむせ返る。初めて人を殺し、内心は怖くて堪らなかった。肉を絶つ感触が消えない。手がぶるぶると震えるのを、止められなかった。
「おい、そこにいるのは誰だ……!」
 騒ぎを聞きつけた村の男が、松明を掲げやって来た。男は血の海に立つ少年を見て、村に響き渡るほどの悲鳴をあげた。

















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