155: 嘗ての友





 北東でコルヴァスを破ったフィードニアは、ネカテの追撃を振り払い南へ下った。旧トルバの地で戦っていたカベルが、ベスカ・ティヴァナ両軍に敗れた為、残されたスリアナが救援を求めて来たのだ。
 フィードニアが駆けつけた時、スリアナと旧トルバの兵士達は既に虫の息に等しい程の戦力しか残されていなかったが、それでもよく堪えてくれたものだった。ここを突破されていたら、フィードニア本国はティヴァナの進軍を許すことになっただろう。そうなっては、王都を攻められる前にフィードニア国王軍が戻ってくる事は出来なかった筈だ。
 本来であればこの地で耐えに耐えた兵士達を手厚く労いたい所ではあるが、それが許される戦況ではない。まずは疲弊した兵士達を後方へ下がらせ、フィードニア国王軍はティヴァナと対峙した。
 フィードニアとティヴァナ。両国王軍が戦場で対峙したのは、二国間の同盟が破れ、戦いが始まってから実に一年近く経ってからのことだった。

 とうとうこの日が来てしまった。その思いが胸の奥底に無いと言えば嘘になる。だが既に決意したことだ、今更感傷に浸る位なら、あの時祖国に剣を向ける道など選んではいない。
 目の前に広がるティヴァナの旗を前にして、こんな光景を敵側の方から眺めることになるとは、十年前の自分なら思いもしなかっただろうことに、少しばかり人生の不思議さを感じる位のものだ。
「ティヴァナの総指揮官であるテガンは、守りよりも攻めの戦法を得意としています。隊の側面など、隙を見せたら即攻め込まれるでしょう。左右にも手堅い兵士達を配置しておいた方が良いでしょうね」
 淡々と言うクリユスに、ハロルドが頷いた。
「名将と名高い男だ、向こうの癖を知りつくすお前がこっち側にいるというのは、ありがたいな」
 笑うハロルドのマントが、大きく翻った。今日は風が強い。
「しかし、風はティヴァナの味方をしましたね。見事に向かい風です、これでは大弓も飛距離を伸ばせません。相手の大弓の矢が尽きるまで堪え、その後こちらの射程範囲に近付いた時に一斉に射ち込むしかありません」
「そうだな、こちらは向こうの弓兵に備え、大楯を前に並べる。ブノワ、今残っている全ての大楯を出せ」
「は」
 ブノワが歩兵隊に指示し、すぐさま大楯を持った兵士達が最前線に並べられた。クリユスはそのすぐ後ろに大弓隊を並べ、その次に弓騎馬隊を並ばせた。
 この強風をティヴァナが逃す筈が無い。向こうが戦闘の笛を鳴らすのも、時間の問題だろう。その後に続く騎馬隊の陣形が整わぬまま、思ったとおりにティヴァナは動き出した。
「お出ましだな」
 いくつもの苦境を乗り越え、副装指揮官の座もすっかり板についたハロルドが、平坦な口調で言った。その調子に合うような呑気な相手では無いことは、誰もが知っていることではあるが、その大様さが何とも頼もしい。この男を見出した己の目も、どうやら節穴では無かったようだ。
 強風に乗せ、ティヴァナの弓が遥か遠くから勢いを増し襲ってきた。豪雨のように落ちてくる弓矢に、流石の強固な大楯も次々に破壊され、倒されていく。
「ハロルド殿、もう長くは持ちません!」
 大楯隊の隊長が叫ぶのと同時に、倒され開いた大楯の隙間から弓矢が襲い、大弓隊の兵士達が倒された。
「クリユス、大弓隊はまだ行けぬのか」
 ハロルドが声を上げたが、クリユスは首を横に振る。
「まだです、まだ届きません。しかしこのままでは、向こうの矢が尽きる前にこちらの大弓隊が全滅します」
「く……仕方が無い、大弓は捨てる。全軍、このまま突っ込むぞ。いいですね、ジェド殿」
 問われたジェドは、にやりと笑うと剣を引き抜いた。
「無論だ。一々俺に聞かずとも、お前の好きにやれ」
「は……!」
 ハロルドが合図を出すと、鬨の声と共に全軍が一斉に走り始めた。尚まだ降り注ぐ矢に、仲間は次々と馬から落ちて行く。
 クリユスもまた、盾と剣で何とか弓を弾きながら、必死に駆けた。弓の射程距離まで辿り着いたとき、再び剣を弓に持ち替え、矢を放つ。風の向きを見越し放った矢は、見事に敵兵を射抜いて行く。その頃には相手の大弓も尽きたようで、ようやく騎馬隊が動き始めた。
「クリユス隊長……!」
 両軍が混戦する中、無心で矢を放っていると、懐かしい声がクリユスの名を呼んだ。そちらへ目をやると、亜麻色の長い髪の男が、自軍の兵士達を掻き分けこちらへ向かって来た。
 ティヴァナ国王軍弓騎馬大隊長、マルセル・アーヴァイン。かつて彼の部下だった男だ。
「何度も言うが、大隊長はお前だろう。私はもうお前の上官ではないのだよ、マルセル」
「何を言っておられるのです。もう演技は終わりにして、こちらへ戻って下さい!」
 目を吊り上げるマルセルに、クリユスは苦笑した。
「私は既にティヴァナを裏切っている。再三の帰国命令も全て無視してきたのだ、分かっているだろう?」
「そんなのは嘘だ。貴方のことだ、何か考えがあって裏切った振りをしているのでしょう」
 頑なに彼を信じようとするマルセルに胸が痛みはしたが、それさえも既に覚悟したことだ。
 クリユスは黙ったまま弓を引くと、矢尻をマルセルに向けた。
「クリユス隊長……!?」
 放った矢を、マルセルは辛うじて避けた。信じられぬとばかりに、頬を震わせこちらを見る。
「隊長などと、もう俺を呼ぶな。今の矢が脅しなどでは無いこと位、お前にも分かるだろう」
「そんな……何故、どうして……!」
 その叫び声に悲痛さが混じった。本当に殺すつもりで矢を放ったのだ。その意味をやっと悟ったようだった。
「祖国よりも守りたいものがこちら側にある、ただそれだけだ」
「祖国よりも、守りたいもの……。それは、まさかあのフィルラーンの少女なのですか。くだらない噂だと思っていましたが、まさか本当に」
 美麗な見た目と違い、堅物なマルセルから出た言葉に、クリユスは口の端を少し緩めた。ティヴァナに帰った時、皆に「あの美しいフィルラーンが傍にいるのでは、フィードニアから戻って来たくは無いだろう」などと散々からかわれたものだった。皆、まさか本当に帰って来ぬつもりだとは思っていなかったようだが。
「……信じられない。幾ら貴方が女好きだからといって、たかだか女の為に祖国を裏切るなど、愚かにも程がありますぞ!」
「愚かなのは分かっているよ」
 再び弓に矢を番え、クリユスはにやりと笑う。
「だが男というものは、すべからず愚かなものさ。同じ愚かさなら、女の為に生きてこそ甲斐があるというものではないか」
 片目を瞑ってみせると、マルセルは憤怒した。
「戯言を言うな。この、裏切り者が……!」
 マルセルもまた、弓をクリユスに向けた。その時、二人の間にどっと騎馬小隊が割り込んできた。走る馬達に押され、いつの間にか矢が届くぎりぎりの所まで離された。だがそれでも互いに睨み合い、相手を狙い定めたままだった。
「クリユス……!」
 マルセルが叫んだ。それと同時に、二人の矢が放たれる。
 マルセルの矢はクリユスの頬を掠め、クリユスの矢はマルセルの左側の腹に刺さった。急所は外れている。
 すかさず追撃の矢を放とうとしたが、土煙が舞い上がり、視界を奪われた。
「クリユス、次に相見えた時は、必ずお前を殺してやるぞ……!」
 そう叫ぶ声が、遠くから聞こえた。
 クリユスこそ、たった今、かつての部下をこの手で殺すつもりだったのだ。だが矢は急所を外した。フィードニアに付くと決めた以上、相手に情など掛けていては、いずれ自軍に害を齎すことになりかねぬと、解っているのに。
 まだまだ俺も甘い。そう思いながら、クリユスは近くの敵に的を変え、矢を放った。












TOP  次へ





inserted by FC2 system