149: 逃亡





 メルヴィンが指揮するコラン国境警備隊を捕らえるよう、王命が下された。
 国王軍が向かった兵は、騎馬隊二個中隊のみである。国境へ大隊を向かわせてしまうと、諸外国にベスカ国を攻めようとしていると思われかねぬ為、多くの兵を出すことは出来なかった。
 もっとも、例えメルヴィンが歯向かおうとした所で、国境警備隊自体が国王軍に剣を向けるとも思えない。実質たった一人を捕縛する為の兵にしては、多すぎる位である。
 要はそれ程に事が重大であり、万が一にもメルヴィンを逃す訳にはいかぬと言う意思を、諸外国へ示しているのだ。
 国王軍はコラン国境警備隊の駐屯地へ到着すると、建物を囲むように兵を配置した。
 コラン国境警備隊へは、ベスカとの戦闘を直ちに止めるよう既に命を下している為、両軍は現在膠着状態にある。
 無論こちらが先に手を出しておいて、やはり止めたくなったなどという勝手な主張が通る筈も無い。トルバ側の軍は、いつでもこちらに攻撃が出来るよう国境線沿いに軍を布き、警戒態勢にあった。
「メルヴィンを呼べ、申し開きをさせてやる」
 ハロルドは迎えに出てきた国境警備隊の兵士に、メルヴィンを“王族”として扱うつもりは無いことを示す為に、あえて敬称を付けず名を呼んだ。
「はっ…!」
 恐らく警備隊の副隊長であろうその男は、青褪め精彩を欠いた顔で敬礼すると、慌てて建物の中へ入っていく。予想通り、彼らは国王軍への叛意など微塵も持ち合わせていないようである。上官の命に従い戦っただけだというのに、国王軍に剣を向けられることになってしまったこの事態に、隊全てが震え上がっているようだった。
 これならばさっさと片が付くだろうと安堵したハロルドだったが、予想に反し兵士は中々メルヴィンを連れて戻って来なかった。
 半刻(30分)程待たされた所で痺れを切らし、再び警備隊の兵士を呼び出すと、先程の男が更に顔を青くさせながらやって来た。
「遅いぞ、メルヴィンはいったい何をやっているのだ。女のように身支度に時間でも掛けているのか」
 ハロルドが噛み付くと、部下の一人が「有り得ぬことではありませぬな」と相槌を打ち、兵士達の間に失笑が漏れた。
 戦場でも香油の匂いを漂わせている男だ、己を捕らえに来た軍を前に、身支度をしていたとしても不思議ではない。
 しかし呑気に笑っていられたのも、それまでであった。
「いえ…それが……」
 男は言いよどんだ後、意を決するように口を開いた。
「メルヴィン隊長が、どこにもいないのです」
「なんだと」
 ハロルドは笑みを引っ込めると、代わりに目を吊り上げた。
「いないとはどういうことだ、ちゃんと探したのか」
「はい、それはもう、執務室はもちろん居室から寝室、浴室までも隅々探したのですが、どこにも居られぬのです。ほんの一刻程前には確かに執務室に居られたのですが」
 途中から男の言葉はハロルドの耳に入ってはいなかった。血の気が引き、顔が青褪めていくのが己でも分かった。
(逃げたのか)
 かつて無い程の激しい怒りが、ハロルドの心内に湧き起こった。
 国を揺るがす重大事を引き起こしておいて、己はさっさと逃げ出したというのか、あの男は。
 自分で仕出かした事への後始末をつける覚悟も無いくせに、勝手にティヴァナとの約定を破りやがったのか。なんという愚かで卑怯な男だ。そんな男が一時でも己の上官であった事実が呪わしくさえある。
「探せ、一刻ならばまだそう遠くへは行っていない筈だ。何としてもあの男を見つけ出し、捕らえるのだ!」
「は…!」
 命令と共に、国王軍の兵士達は小隊に分かれ方々へ散って行く。コラン国境警備隊もそれに習い、慌てて後に続いた。
 首謀者であるメルヴィンの身柄をティヴァナへ引き渡さねば、今回の事態を収拾させることは出来ぬだろう。万が一取り逃がしたら、などという事は、想像すらしたくなかった。
 ハロルドは腰に佩いた剣を握り締めると、その髪の色のように怒りに赤く燃える目を、どこに居るとも知れぬメルヴィンへと向けた。
 いいや、身柄など、生ぬるい。
 王族が何だ、誰が何と言おうと知ったことか。見つけ出したらすぐさまその首を切り落とし、ティヴァナへ送ってやる。








 その更に半刻後、ベスカ国の国境近くにあるムラスという街で、二人の男が人目を避けるように狭い路地を進んでいた。
「しっ…こちらへ」
 一人の男が足を止め、もう一人の男を路上脇に積んである樽の陰に隠した。
 その先の広い路地では、誰かを探すように辺りを見渡すベスカ国の兵士がうろついている。メルヴィンが姿を消した事が発覚してから、まだそう時は経っていないであろうに、既に隣国の兵士まで動かしているとは、ハロルドの手腕には舌を巻く。
 思わず感心していると、後ろで身体を縮こまらせているメルヴィンが、不満そうに顔を歪めた。
「なぜこの私がこのように逃げねばならないのだ。手柄を立てろと言ったのはお前ではないか、バルドゥル。王はティヴァナとの戦いを望んでいるのだろう」
「ええ、その通りです」
 バルドゥルは思わずくすりと笑った。
 この男の世情の読めなさにもまた、ある意味感心させられる。あの王の甥に生まれ、よくここまで愚かに育ったものだ。
「あなたのお働きには、クルト王もお喜びになっておいでですよ。これであなたが消えてくれさえすれば、ティヴァナは剣を抜かざるを得なくなります」
「なんだって?」
 メルヴィンはバルドゥルの言葉に目を剥いた。
「待て、消える? どういう事だそれは。この私の国王軍復帰はどうなる、その為に私はお前の言いなりになったのだぞ!」
 鼻息を荒くするメルヴィンを手で制すると、バルドゥルは肩を竦める。
「国王軍復帰? お戯れを、この状況で本気で軍に戻れるとお思いなのですか。愚かさもここまで来れば哀れですな」
「なっ……」
 蔑むその言葉に、メルヴィンは顔を赤くさせる。
「無礼な。貴様、誰に対し物を言っているのだっ!」
「誰……さて、王族位を剥奪され、国境警備隊からも脱走したあなたは、いったい誰なのでしょうな」
 冷笑と共に見下ろすと、メルヴィンはわなわなと口を振るわせた。
「き、貴様、バルドゥル……!」
 彼は飛び上がりバルドゥルに掴みかかると、その目に憎悪を漲らせた。この愚かしい男にも、ここに来てようやく己が置かれている事態を理解出来たようだ。
「ふざけるな、それもこれも皆お前に従った所為ではないか。まさか、まさかこの私を騙したのかバルドゥル、よくも……っ!」
 怒りの余りかその手に力が入り、首が締めつけられる。仕方なくバルドゥルはその腕を外すと、逆に身体の後ろに捻り上げ、動きを封じた。
「し…お静かに、メルヴィン殿。ここで見つかり困るのは私では無くあなたなのですよ」
「くっ……この、バルドゥル。こんなことをして、唯で済むと思うなよ!」
「お静かにと申し上げているでしょう」
 更に力を入れると、関節がぎしぎしと音を立てる。メルヴィンは苦痛に顔を歪めながら、慌てて頷いた。
「痛たた……っ! わ、分かった。止めてくれっ…!」
 手を離し解放すると、メルヴィンはその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込む。腕を擦りながら恨みがましい目を向けてきたが、それは無視して辺りに目を配った。幸い、先程の兵士はどこかへ行ってしまった後で、周りにベスカ兵の姿は無かった。
「……私を騙し利用したのは、叔父上なのか」
 暫くの間黙っていたかと思うと、呟くようにメルヴィンが言った。どう答えたものか迷ったが、違うと嘘を付いても信じないだろう。
「―――言っておきますが、これはあなたの無能さが招いた事態なのですよ。王はあなたに何度も機会を与えたというのに、軍を上手く導くことはおろか、国境警備隊の任務を放棄し、ティヴァナの密偵の疑いが掛かった兵士二人の処遇も私憤を挟む始末」
 冷ややかな目を向けられ、メルヴィンは青くなった。
「いや、しかしあれは仕方の無いことなのだ。そもそもクリユスが私を嵌めなければ」
「言い訳は結構です。どう取り繕おうと結果が全て、王は己の地位に驕る無能な者というのを、一番お嫌いになるのです」
 ぴしゃりと言われメルヴィンは口を噤んだが、納得出来ぬとばかりにバルドゥルを睨め付けた。クリユスに嵌められさえしなければ、軍は上手く纏めていたとでも思っているのだろう。それすら他の兵士達の艱難辛苦の働きがあってのことだということに、気付いてさえいないのだ。
 バルドゥルは溜息を吐くと、再び辺りへ目を走らせ、人気が無いのを確認してから歩き出した。
「いいですか、ここから出たら西へ向かうのです。大河を超え西方の地へ行ってしまえば、フィードニアもティヴァナも手が出せません。そこで自分の力で生きてゆきなさい」
「なんだとっ」
 メルヴィンは寝耳に水だとばかりに、目を見開かせた。
「私一人でか。何を言っている、私一人でどうやって暮らしていけるというのだ」
 ここから先もバルドゥルが付いて来ると思っていたのだろう、メルヴィンは今までの憤懣も矜持も瞬時に捨て去り、懇願するようにバルドゥルのマントを掴んだ。
「私は王城でしか暮らしたことが無いのだ、市井の民に紛れ暮らすことなど出来ぬ。まして一人知らぬ土地でなど、生きていける筈が無い。頼むバルドゥル、これからは心を入れ替えるゆえ、叔父上に許してくれるよう口添えしてくれ」
 必死に訴えるメルヴィンに、バルドゥルは首を横に振った。
「メルヴィン殿、今更王があなたをお許しになったとしても、同盟の約定を破り勝手にベスカへ攻撃を仕掛けた男が無罪放免となることは万に一つもありません。今王都へ戻ればあなたは捕らえられ、ティヴァナへ引き渡されることになります。それが嫌なら身分を捨て、西の地へ逃げ延びるしかないのです」
「そんな、私はただ、お前に騙されただけだというのに。酷いではないか、用が済んだらごみのように捨てるのか、この王の従弟であるこの私を……!」
 駄々を捏ねる子供のように、メルヴィンは厭々と顔を横に振る。バルドゥルはマントを掴むその手を、冷淡に切り離した。
「そうですね、私はあなたを騙し、利用して見捨てるのです。―――私がさぞ憎いでしょうね」
 バルドゥルはメルヴィンの目を真っ直ぐに見つめると、肩に手を置いた。
「私が憎ければ、これから先を己の力で生き抜いてみなさい。己の目で広い世の中を見、己の頭で考えなさい。そしてあなたの尊いその血に見合う力を手に入れたら、私に復讐しに戻ってくるのです。そうしたら、私は喜んでこの首をあなたに差し出しましょう」
「バルドゥル……っ」
 メルヴィンは顔を歪めた。
「復讐なんてどうでもいい、一緒に来てくれ、バルドゥル!」
 情けない顔をするメルヴィンに少しばかり苦笑すると、バルドゥルは彼の背中を押した。
「そこの裏門の兵士には金を握らせてあるので、この偽の通行所でも通してくれる筈です。外に出たら待たせてある馬車に乗って下さい。そしてそのまま西を目指すのです。いいですか、私が手助け出来るのはここまでです」
「バルドゥル!」
 行く先から抗うように顔を背け、未練がましい目を向けてくるメルヴィンの背を、バルドゥルは再び押す。そして断ち切るように彼に背を向けた。
「またお会いできる日を、楽しみにしていますよ」
 それだけ言い置き、彼はさっさと歩きだした。尚も心細そうな声が彼の名を呼んだが、もう振り返ることはしない。
 姿が見えなくなる所まで歩くと、バルドゥルは馬を借りそれの背に飛び乗った。そしてフィードニアへ向け、走り始める。
 あの甘えったれの世間知らずな男が、一人生き抜き再びフィードニアに戻ってくる可能性など、ほんの僅かに過ぎぬだろう。
 言い訳などしない。自分はあの男を嵌め、見捨てたのだ。
 遠いあの日、クルト王の兄である先王を殺め、更には次兄を国外へ追放させて、その座を簒奪した時。クルト王と共に誓ったのだ。変わりにフィードニアをどの国にも負けぬ強国に育て、この東方の地の覇国としてみせると。
 その為には、どんなことだってしてみせる。情など既に捨てたのだ。

 それでも―――――。
 バルドゥルは馬を止めると、一度だけ西へ振り返った。
「待っていますよ、貴方が私の首を取りにここへ戻ってくることを」
 小さく呟いてから、再び馬を走らせた。
















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