143: 真意と願い





―――――ジェド殿を、殺して下さいませんか。貴女の、その手で。

「な…に? 何だって、それはどういう―――」
「し…お静かに。他の者に聞かれてしまいますから、この話は後程牢に戻り人払いをした後に……」
「あ、ああ……」
 事もなげにそう告げられた不穏な言葉の意図が、ユリアには全く分からなかった。
 ジェドを殺す。屈強な兵士にさえ困難なそれを、ユリアが成し得られる筈など無いことは分かり切っている。その言葉は揶揄なのだろうか、それとも――――。
「それよりも、何かおかしいとは思いませんか? メルヴィン殿をわざわざ呼び寄せておきながら、こうもあっさり放逐するとは。まるで、彼が何か失態を犯すのを待っていたかのような……」
 眉根を寄せそう思案するクリユスの言葉は、ユリアの頭の中には入ってこなかった。
 いったいクリユスは、この私に何をさせようというのか。牢へ行くまでの短い道のりが、とても長く感じられた。

「ラオ様、ご無事なのですか、どこにもお怪我はされていないのですかっっ」
 鉄格子に縋り付き泣きじゃくるダーナの頭を、ラオはあやす様に撫でる。
「心配かけてすまんな。だが俺はこの通りぴんぴんしてるから、もう泣くな」
 困ったように眉を下げるラオは、ユリアが知るどんな時の彼よりも優しげな表情をしていた。二人の間に流れる甘い雰囲気に驚いていると、再び牢へ入れられたクリユスが肩を竦める。
「おや、ユリア様。お気付きではなかったのですか。あの二人は想い合う仲なのですよ」
「え…そうなのか」
 これだけ近くにいる大切な人だというのに、今まで全く気付いていなかった。己が如何に周りに目を向けていなかったかを思い知らされ、ユリアは愕然となる。
 だが今は、落ち込んでいる場合では無いのだ。クリユスに視線を向けると、彼は小さく頷いた後、ちらりとダーナヘ目をやった。
「ユリア様、その前に人払いを……」
 少し低くなったその声に、ぎくりとした。
「それはダーナも、なのか?」
 今までどんな話しをしている時でも、クリユスがユリアの傍からダーナを遠ざけることなど無かったというのに。彼女に聞かせられぬ内容とは、いったい何だというのだろう。
 一瞬得体の知れぬ恐ろしさから逃げ出したい気持ちがユリアを襲ったが、それでも聞かぬわけにはいかないのだ。なんとか心を抑えつけて、ラオの手に縋り付いているダーナの肩に手を置いた。
「ダーナ、塔へ戻って温かいスープを用意してくれないか。牢は冷える、二人に飲ませてやりたいんだ」
「あ…そうですわね、そう致しましょう。急いで作ってまいりますわ」
 赤くなった目を今度は輝かせて、ダーナはいそいそと塔へ戻って行った。

「それで……クリユス、さっきの言葉はいったいどういう意味なんだ?」
 恐る恐る聞くと、クリユスは牢の中で涼やかに笑う。
「どうと言われましても、言葉通りの意味ですよ、ユリア様」
「言葉通り?」
「そうです、貴女にジェド殿を殺して頂きたい。それだけのことです」
「なっ―――おいクリユス、ジェド殿を殺すって、どういうことだ!」
 ユリアがその言葉を飲み込むよりも早く、隣の牢にいるラオが怒鳴った。
「五月蠅いな、お前は。私はユリア様と話しているんだ、少し黙っていろ」
「なんだと、お前っこの……!」
 二人が喧嘩を始めそうになったので、ユリアは慌てて口を挿む。話が逸れてしまっては堪らない。
「いや、クリユス。どういうことなのか私も説明して欲しい。ジェドを殺すなんて、私に出来る筈が無いではないか」
 彼を殺すことが出来るのは神だけだと噂される男である。誰がどう考えたって、ユリアのように剣もまともに振るうことが出来ぬ少女に、それが成せるなどと思う者はいないだろう。だというのに、クリユスはユリアの言葉を否定した。
「いいえ、出来ます。貴女なら――というより、貴女にしか出来ぬことです。フィルラーンの、そして今の、貴女にしか」
 含めるように言うクリユスに、ユリアは首を横に振った。
「お前が何を言っているのか分からない。それに私は、ジェドに死んで欲しいだなんて思ってはいないんだ。ただ、国王軍からの追放を望んでいるだけで……」
 その言葉にクリユスは笑みを消すと、鉄格子の間から手を伸ばし、ユリアの肩をぎゅっと掴んだ。
「いいですかユリア様、そのような悠長な事を言っていられる状況ではないのです。今まではフィードニアがティヴァナを攻める口実を作るには、我らがティヴァナの密偵であることを明らかにする必要があるのかと思っていましたが、そうではないのかもしれません。クルト王の意図は分かりませんが―――」
 いつになくクリユスは焦りを滲ませた瞳をユリアに向けた。
「恐らく、王がティヴァナへ剣を向ける日は近い。ユリア様がそれを成さねば、再び―――いえ、今まで以上に大きな戦いが起こることになるでしょう」
「そんな……けど」
 再び戦いが始まれば、また多くの命が失われることになる。しかしだからといって、ジェドを犠牲にするなど考えられない。混乱に陥っていると、肩を掴む手に更に力が籠められた。
「迷っている時間はあまり残されておりません。決心が付いたら、護身用に貴女に渡した短剣を持ち、再びここへ来て下さい。兵舎にいるジェド殿の元へ忍び込めるよう、手筈を整えておきますので」
「短剣……」
 本気なのだろうか。短剣などであのジェドを殺めることが出来るなどと、クリユスは本気で思っているのだろうか。フィルラーンだから、女の身だから油断するとでも思っているのだろうか。
 だがそんな筈はない。ジェドは以前、剣を手に取り向かってきたフィルラーンを、あっさり切り捨てているのだ。
 その“フィルラーン殺し”の一件は、クリユスも知っているだろうに、何故――――。
 そこまで考えて、ユリアははっとした。ある考えが頭を過ぎったのだ。
(―――もしかすると、そうなることを、想定している……?)
 ユリアの頭を過ぎったその“考え”は、今までのクリユスの行動を振り返ってみると、実にしっくりと馴染むものだった。ユリアは震える指で鉄格子を掴む。
「クリユス―――私がそれを実行して、もし…もしも私が逆にジェドに切り捨てられたとしたら」
 クリユスは表情の読めぬ顔でユリアを見詰めている。ユリアはごくりと唾を飲み込んだ。
「ジェドは罪に問われるのだろうか。それとも以前の“フィルラーン殺し”の時の様に、揉み消されて終わってしまうのだろうか」
 クリユスは僅かに目を細めた。
「それはないでしょう。ユリア様、既に貴女の名と存在はこの国の民や兵士達にとって、余りに大きくなられているのです。幾ら王の力を持ってしてでも、御身の死を揉み消すことなど、ましてやその手に掛けた者の罪を不問にするなど出来よう筈もありません」
「では……逆にジェドがその罪の重さ故に、死罪になってしまうことはあるだろうか」
「……それも無いでしょうね。逆に彼が死罪になるには、余りにジェド殿のこれまでの功績が大き過ぎます。“英雄”を死罪にすることは、民衆の反感や不信感を煽る行為です。それに彼を失えば、国外に対する牽制力を失ってしまいます。故に死罪には出来ぬでしょう」
「ではジェドは……どうなるのだろう」
 ユリアの問いに淀みなく答えるクリユスに、それが正解なのだと彼女は確信した。泣きそうになり、堪えるのに必死だった。
「――――恐らく、国王軍総指揮官の任を解かれ、地方の小さな町にでも蟄居させられることになるでしょうね」
「クリユス……!」
 堪えきれず涙が溢れた。どれだけ感謝してもし足りない。ああそうだ、クリユスはずっと、私の願いを叶えようとしてくれていたのだ。
 英雄という名を持つジェドを失脚させるには、生半可な罪ではきっと揉み消されて終わったに違いない。ユリアが漠然と考えていたような、もし彼がこの国に反旗を翻したら、などという曖昧な主張で太刀打ちできる相手ではないのだ。
 そう、それこそ彼と同じ位にこの国にとって重要な、「何か」に対する罪を贖う程でなければ――――。
 思えばクリユスが、ユリアを戦場へ連れ出し戦女神に仕立て上げ、ジェドの名声と並ぶまでに彼女の名を高めさせたのも、民に慕われるように、遠方の地へまで足を運び清めの儀式を行わせたのも、この為だったのだ。
 そして正に今、二人の名は丁度釣り合っている。
「おい、ちょっと待てよ。それはつまり、ユリアに死ねと言ってるようなもんじゃないか」
 ラオが慌てて口を挟んだが、ユリアはゆっくり首を横に振る。
「いいんだ、私はそれでも構わない。私の願いがこれでやっと叶うのだから」
「何言ってやがる、良い訳があるかよ。おい、変なことを考えるな、この男の口車に乗せられるんじゃねえぞっ」
 必死にユリアを止めようとするラオの言葉はとてもありがたかったが、けれど彼女にとって己の死など、この喜びの前には本当にどうでも良いことだった。
 ジェドの笑顔を直に見られないことは残念ではあるが、彼を両親の元へ返し、あの村で笑顔で暮らす彼の姿を想像するだけで、十分幸せな気持ちになるのだった。
「ありがとう、クリユス。私の願いを叶えてくれて」
 心からの感謝を告げると、クリユスは辛そうに顔を歪めた。
「……止めて下さい、私に礼など……。私は、貴女の願いを叶えた訳ではない、それがティヴァナにとって都合が良かっただけで、ただ貴女を利用したに過ぎぬのです」
「例えそうでも構わない。結果私の願いが叶ったことに変わりはないのだから」
 微笑むユリアに、クリユスは諦めたように苦笑する。
「全く……貴女という人は、この期に及んでまだそうやって私に笑いかけるのですね。……嫌な人だ」
 嫌ってくれれば、憎んでくれればまだ楽だったのに。その目がそうユリアに告げていた。
 自分を実の兄のように慕ってくる存在に、死ねと告げるのはどれだけ辛いことなのだろう。クリユスは非情な人間ではない、きっと己が死ぬよりずっと苦しむに違いないのだ。
 だがらせめて、己を憎んで欲しかったのだろう。せめて己を罵倒して欲しかったのだろう。それを分かっていて与えてやれない私は、もしかすると酷い人間なのかもしれない。
「……ごめん、クリユス。だけどお前が好きなんだ。嘘でも憎む振りなんて出来ない。……愛してるよ、クリユス」
「ユリア……」
 零れ落ちるようにその名を呼ぶと、耐えられないとばかりに、クリユスは顔を背けた。
「もう行ってくれませんか。決行の日を決めたら、再びここへ来て下さい」
「分かった」
 頷くと、ユリアは鉄格子から手を離し、ラオの方へ顔を向ける。
「ラオも、元気で……ダーナを頼むぞ」
「おっおい、ユリア……!」
 ラオは尚もユリアを引き留めようと喚いたが、もう彼女は振り返らなかった。
 これでやっと、長い悪夢が終わるのだ。
 ユリアは牢から外へ出た。その日の空は、彼女の心のように晴ればれとしていた――――。













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