141: 牢の二人





 地下牢に窓は無く、天井に近い部分に小さな換気口があるのみである。陽の光や月明かりがそこから僅かに差し込んでくるため、昼夜の区別は辛うじて付くが、時間の感覚が徐々に曖昧になっていくのをラオは感じた。
「おい、俺が何をしたって言うんだ。ここから出しやがれ!」
 扉の向こうに居る看守に向かってラオは叫んだ。
 いくら叫んだ所で何の反応も得られないと分かってはいるが、それでも叫ばずにはいられない。この牢に入れられて数日の間、この狭い空間の中でしか動けていないことに鬱憤が溜まっていた。
「五月蠅いぞラオ。そう喚かれると昼寝も出来ないではないか」
 隣の牢に居るクリユスが、冷ややかな声を寄越して来た。この状況でよくもそんな呑気な事が言えたものだ。
「冗談じゃないぞ、確かに俺達はティヴァナを生き残らせる為にここへやって来たが、それでもフィードニアに害を成すようなことをした覚えは無いぞ。寧ろ軍に貢献した自負だってある。それがなんで今更ティヴァナの密偵なんてことになるんだ…!」
 ラオは拳を鉄格子に叩きつけた。元々ティヴァナを発った時から、あの国には戻らぬ覚悟でここへやってきたのだ。ティヴァナの為という以上に、フィードニアを強くする為必死で戦ってきた。裏切り者呼ばわりされる覚えなどない。
「そんなことは関係ないな。フィードニアは……クルト王は、この地をティヴァナと二分したままでいることに満足していないのさ。だから同盟などさっさと破棄してティヴァナへ攻め込みたいのだろう。我々はその口実という訳だ」
 どこか他人事のように言うクリユスに、ラオは苛立ちを覚えた。
「だったら尚更、こんなところでのんびり昼寝なんぞしている場合じゃねえだろうが!」
 声を荒げるラオを余所に、クリユスはふふんと歌うように鼻を鳴らす。
「けれどいくら王がティヴァナに戦いを仕掛けたくとも、ジェド殿がいなくなればそれは叶わない。現在のティヴァナが弱っているとはいえ、彼という英雄がいないフィードニア軍に負けるような弱国ではない。違うか?」
「それは……そうだが。だがその為にジェド殿を失脚させるなんてのは許せねえ。その時は俺が全力で止めてやると、前にも言ったよな」
 例えこの友と剣を交えることになろうとも、それだけは許しはしない。そう己の剣に誓ったのだ。だがラオの重い決意とは裏腹に、クリユスは幾分楽しそうに言った。
「ああ、覚えているさ。……だが牢に繋がれたままで、いったいどうやって止めるんだ?」
「何?」
「俺の邪魔をしようにも、お前はここから一歩も出られはしないじゃないか。それでどうやってこの俺を止めるんだと聞いているんだよ、ラオ」
「何言ってやがる」
 クリユスの訳の分からぬ言葉に、ラオは呆れると同時に、こいつは牢に入れられたショックで気でも触れたのではないかと本気で心配になった。
「それならお前だって同じ牢の中じゃねえか。それでどうやってジェド殿を失脚させるっていうんだ」
 自分が居るのは牢の中ではない、などとこの男が言いだしたらどうしようかと、ラオは内心冷や汗をかいたが、クリユスが口にした言葉はそんな想像よりもっと醜悪だった。
「俺はいいのさ。俺がすべきことはもう殆ど残っていないからな。それよりも五月蠅いお前の邪魔が入らないほうが俺にとってはありがたいね」
 さらりと言うクリユスの言葉の意味が、最初は理解出来なかった。だがこの男の性格を考慮したうえで、頭の中でそれをよく咀嚼してみると、嫌な考えに行き着いてしまう。
「お前……まさかその為にわざと捕まったんじゃないだろうな。この俺を黙らせる為に、自分諸共俺を牢にぶち込んだんじゃねえのか」
「まさか、そんなことするわけないだろう」
 飄々と言うその台詞は、最早白々しさしか感じない。
「そうだろうが。そこまでクルト王の考えが解っていて、それでもお前が大人しく牢に入れられるなんておかしいじゃねえか。……くそっ、お前ここから出たら覚えてろよ!」
 ラオは再び拳を鉄格子に叩きつける。牢の外から「五月蠅いぞ」と看守の声が返ってきたが、構ってなどいられない。
「お前いったいジェド殿に何をしたんだ。何をしようとしてやがる」
「それは、お前がここで大人しくしていれば嫌でも分かることだ。……もっとも、その為には一度ユリア様にお会いしなくてはならないんだが……」
「ユリア?」
 意外な名に思わず怒気が削がれた。それはユリアがジェドを失脚させるという意味なのだろうか。だが幾らユリアが兵士達や国民の支持を得たとはいえ、国王軍総指揮官の地位を剥奪出来るような力には成りえない筈だ。
 こんな所に閉じ込められた挙句に、唯一の話し相手は謎だらけなことばかり口にするとあっては、流石に気が滅入る。
「おい、いい加減に……」
 お前の腹の内を喋りやがれ、と続けようとした時、唐突に牢場の扉が開いた。

「ほう、なんとも良い眺めではないか、どうだ牢の居心地は」
 そこから顔を覗かせた男は、何が嬉しいのか満面の笑みを浮かべている。
「これはメルヴィン殿。ようこそいらっしゃいました、ご機嫌は如何ですか」
 まるで社交場にでもいるかのような口調で返すクリユスに、メルヴィンはむっとしたように顔を顰めた。
「そんな余裕の態度をしていられるのも今の内だけだぞ、貴様はいずれ縛り首になるんだからな。それが嫌ならば罪を認め、みっともなく地べたに頭を擦り付けて許しを乞うが良い、命くらいは助かるかもしれんぞ」
「さて、そうは言われましても、ティヴァナの密偵などという、全く身に覚えのない罪など認める訳には参りませんが」
「この期に及び白を切るとは愚かしいぞクリユス。こっちは貴様がティヴァナの密偵であるという証拠も掴んでいるのだ」
「証拠……ほう、それは一体どのようなものなのですか」
 ふん、とメルヴィンは鼻を鳴らす。
「貴様に教えてやる必要などない」
「そうですか。切り札は簡単には見せぬという訳ですね。……まあ、本当に貴方がそれを手にしているのであれば、ですが」
 クリユスの声に嘲りの色が混じった。壁一枚に隔たれている為ラオにはクリユスの顔は見えないが、恐らく人を見下したような表情でもしているのだろう。メルヴィンの顔がみるまに怒りで赤く染まっていく様子から、それが伺えた。
「おいクリユス、止せよ」
 この状況でメルヴィンに噛み付いたところで、良いことなど何一つ無い。ラオが静止の声を割り込ませたが、もう遅かった。それを遮るようにメルヴィンの尖った声が牢内に響く。
「何だと。どういう意味だ、それは」
「証拠が何なのか、貴方は言わないのではなく、言えないのではありませんか? 何故ならば貴方はバルドゥルからそれを知らされていないからだ。貴方はバルドゥルから…いや王から信用されていないのです」
「貴様ぁ……!」
 図星だったに違いない、メルヴィンは激高すると、外にいる看守に向かって叫んだ。
「おい、誰かこの男を縛り上げてこの檻から引き吊り出せ!」
 言わぬことではない。余計なことを口走ったクリユスは、看守二人に取り押さえられ、両腕を体の後ろで縛られてメルヴィンの前に引き吊り出された。
「貴様は自分の置かれている状況をよく理解していないようだな」
 両脇をがっちりと押さえつけられ、身動きが取れずにいるクリユスの顔面を、メルヴィンは二度、三度と容赦なく殴りつける。その拍子に口の端を切ったようで、血が滲み出た。
「……何が可笑しい」
 メルヴィンの声が、恐らく怒りで震えた。クリユスは血の滲む口を吊り上げ、楽しそうにメルヴィンを見据えている。そして尚も嘲りの声のまま言った。
「どこまで愚かなのだ、貴方は。己で考え、己で行動を起こそうとせず、耳触りの良い言葉にばかり耳を貸すから私のような者に嵌められるのだ。あまつさえ、血族である王からも良いように使われていることに気付きすらしないとは」
「黙れ!」
 再びメルヴィンの拳がクリユスの頬へ飛ぶ。がつんと鈍い音が牢内に響いた。
「おい、止めろ!」
 堪らずラオは叫んだが、メルヴィンの耳には届いていない。拳は次に腹に喰い込み、クリユスは呻き声と共に体を折った。
「くく…どうした、涼しい顔もこれまでか」
 メルヴィンは床に崩れ落ちたクリユスの顔を、そのままぐりぐりと踏み躙る。
「いい気味だな、貴様がそうして床に這いつくばる姿をずっと見たかったのだ。この私を陥れ辺境の地へ追いやった、貴様の哀れな姿をな」
 言いながら更に足に力を込めたらしく、クリユスが苦しそうに顔を歪めた。
「おい、止めねえか!」
 ラオは鉄格子を殴りつけ叫ぶ。恐らく何らかの意図があってメルヴィンをこうして挑発しているのだろうが、この虫が好かない男に足蹴にされる友の姿を、このまま黙って見ていることは出来なかった。
「……大丈夫だ、ラオ。この男に出来ることなどここまでさ。幾らこの俺が憎くとも、独断で処刑する度胸などありはしないのだからね」
 クリユスはラオに視線を寄越しながら、にやりと笑って見せた。
「き、貴様……貴様、どこまでこの私を愚弄すれば気が済むのだ……!」
 クリユスの胸ぐらを掴むと、メルヴィンは看守に怒鳴りつけた。
「お前達、ぼけっとしていないでこの男を連れてこい。……そんなに処刑されたければ望みのままにしてやろう。民衆の前で貴様の首を跳ね、晒し者にしてやる……!」
 メルヴィンの怒号に気圧されるように、看守二人はクリユスの両腕を掴み立たせると、そのまま外へ連れ出そうとする。
「お、おい。クリユス……!」
 声を掛けたラオに、クリユスが一瞬片目を瞑ってみせた。その目配せに、ラオははっとする。
 ―――――そうか、これが狙いか。
 クリユスは先程、ジェドを失脚させる為には一度ユリアに会わねばならないと言っていた。だがここ数日の様子から伺うに、牢内へは誰も入れぬよう指示が出されているようなのだ。ならばこちらから外へ出てやろうと、そういうことなのだろう。
 だがそれにしてもやり方が無茶苦茶過ぎる。これでもし本当に処刑されたらどうするのだ。それとも、ユリアに会えさえすれば己はもう用済みだから、処刑されても構わぬとでもいうのだろうか。
 牢に閉じ込められ身動きできない己が忌々しい。自分はここで、何も出来ぬまま成り行きをただ見詰めているしかないのか。
「くそっ!」
 ラオは鉄格子に拳を打ち込んだ。頑丈なそれはただ音を響かせたのみで、何事も無かったかのように彼の行く手を阻んでいた。












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