134: 帰国2 港中を埋め尽くす多くの人々に揉まれながら、まるで祭りだな、と幾分呆れた気分でラオは思った。 人が集まるところには、便乗して商売を始める者が必ず出てくるものだ。パンや果物、あるいは酒やつまみ類を売り歩いている商売人も多くいる。ここにアレクがいたら、警備も忘れはしゃいだことだろうが、奴は華やかなフィルラーンの護衛よりも、城に残って訓練することを選んだ。 以前なら考えられぬことだが、ユーグに歯牙にもかけられず負けたのがそうとう悔しかったのだろう。あれ以来人が変わったように訓練に没頭するようになっていた。調子に乗るだろうから本人には言ってやらないが、もともと筋は悪くない、きっと強くなるだろう。 そう物思いに耽っていると、歓声がどっと沸いた。何事かと辺りを見渡すと、ジェドが片膝を付き、ユリアに対し頭を下げている場面が目に飛び込んできた。有り得ぬ光景に、ラオは思わず目を丸くする。 「……見たか、見たかラオ」 近くに立っていたクリユスが、声を震わせ感極まった様子でそう口にした。 「あの“英雄”がわざわざティヴァナまでユリア様を迎えに行き、更に民衆の前で彼女に礼を取ったのだ。もうユリア様は“英雄”の引き立て役ではない。“もう一人のフィルラーン”でもない。“英雄”も認める、唯一無二のフィードニアの女神だ」 視線は縫い付けられたように二人に合わせたまま離さない。この男が感情をこうも露わにするなど、付き合いの長いラオにとっても珍しいことだった。 ユリアの帰国の報が入った時、クリユスが真っ先に行ったことは、同盟の使者としての彼女の功績を、民衆に広めることだった。この大きな戦いを終結に導いたのは、自らが人質となることも厭わず他国へ赴き、見事同盟を締結させたフィルラーンのユリア様のおかげなのだと、そう説いて回ったのである。 今日この日、これだけ多くの人間をこの港に集めてみせたのはクリユスに他ならない。ジェドがユリアに儀礼を取ったのはクリユスにとっても予想外の事だろうが、それでも祝宴のようなこの“場”を作ったのは、間違いなくクリユスなのだ。 “英雄”と同等の位置にまでユリアの地位を引き上げ、更にそれを民衆に見せつけて、いったいクリユスは何をしようとしているのだろうかと、目の前の友を見ながらラオは思う。 フィルラーンという高い身分でありながら、国王軍総指揮官とはいえ格下の一兵士に過ぎぬ男に ジェドを排し、それに代わる主導者としてユリアを立てようとでもいうのだろうか。だがいくら戦女神に仕立てようとも、ユリアにそれだけのカリスマ性があるとも思えない。 いや、だからいいのだろうか。戦いが終わった今、ティヴァナにとってはジェドの存在など脅威でしかない。人々が頭に据えるのは、力を持たぬ“象徴”であったほうが都合がいいだろう。 「確かに、ユリアも今では立派なフィルラーンだ。もうラーネスを抜け出してきてはべそをかいていた、あの小さい女の子ではないという訳だな」 ラオの言葉に、クリユスは一瞬複雑そうな表情をした。だがすぐにいつもの取り澄ましたような顔に戻ると、「そうだな」と呟いた。 ラオは伸びをすると、警備の列に戻った。 クリユスの考えていることなど自分に分かる訳が無い。なんにしても、自分は何があろうとジェドの方に付くだけだ。ただそれだけのことなのだ。 視線を今日の主役達の方へ戻すと、ユリアの後ろにひっそりと立つ、ダーナの姿が目に入った。元気そうで良かったと、ラオは安堵する。 己の手に届く範囲の人間を守る。ラオにとっては、それだけ考えていれば十分だった。 多くの民衆たちの中、護衛の兵が彼らを掻き分けて作った道を通り、馬車へと歩いて行くユリアの前に、クリユスがすっと歩み出た。 「長旅お疲れ様でした、ユリア様」 恭しく頭を下げるクリユスは、いつもと何一つ変わらぬ顔でユリアに笑みを向ける。 クリユスがティヴァナの者だと既に知っているユリアの前でも、一向に動じる様子も見せないこの男に、こうやってずっと騙されていたのかという思いが再び湧き上がった。 ここで私がクリユスを糾弾したら、彼はどうするつもりなのだろうか。それとも私はそんなことをしないと分かっているのか。悔しいが恐らく後者なのだろうと、ユリアは思う。 一瞬逡巡し、そしてユリアはクリユスに笑顔を返すことを選択した。作り笑いではない、何も知らなかったユリアがクリユスに向けていたものと、同じ笑顔だ。 これはクリユスも予想外だったのか、僅かに目を動かした。少しだけでも表情を崩すことに成功し、ユリアは溜飲を下げる。 ユリアはそのまま馬車へ乗り込んだ。ジェドは兵士が連れてきた彼の愛馬に跨っている。もう一緒に馬車に乗ることはないのだ。それを知り、短かい旅の終わりを実感した。 同盟は締結され、戦いは終わった。一旦保留にしていた問題が、これから浮き彫りになるだろう。 ティヴァナは既にユリアにとっても愛着のある国である。フィードニアも守りたい。この両国が共に並び立ち存続するのが理想だが、ジェドを国王軍から解放することも、諦めることは出来ない。それら全てを叶える方法など存在するのだろうか。 ティヴァナは、クリユスはどう動くつもりなのか。そして私はジェドの為に、どう動くべきなのか。今ユリアが分かっていることなど何一つ無い。闇の中に立っているようなものだ、一歩先の道さえ見えなかった。 城に戻り、王に帰国の報告を済ませると、ユリアはまずナシスのところへ訪れた。 挨拶をしてから暫くの間はティヴァナの街の様子など旅の話で雑談し、そしてふと会話が途切れた時、ユリアは呟くように口にした。 「……ナシス様には、私の行く先が視えているのでしょうか。私や、ジェドの行く先が」 ナシスはじっとユリアの顔を見詰め、そして顔を横へ動かした。 「私は誰か特定の人物の未来など、視ぬようにしているのです。他人の過去も、未来も、知ったところで良いことなど何一つありませんから」 「そうなのですか……」 がっかりしたような、どこかほっとしたような、複雑な心境になった。 勿論知っていたとしても、それを彼がユリアに話してくれるとは思っていなかったが、それでも何か指針となるようなものを示してくれるかもしれないと、少しばかり期待していたのだ。 「あの…それでは、この国の行く先ならば視えているのでしょうか」 食い下がるユリアに、ナシスは柔らかな笑みを見せた。 「視えてはいますが、それを今あなたに告げる訳にはいきません。私の先読みの力は国のもの―――つまりは王のものですから、簡単に口にする訳にはいかぬのです。それに……」 ナシスはふと遠い目をした。 「あなたがこの国の行き先を背負い込む必要はありませんよ。あなたは既に一度この国の未来を救っているのですから、それで十分でしょう。二度も救うことはありません」 「そのような…いいえ、救ったなどおこがましい事です。私はただ両国の橋渡しをしただけで、戦いを終らせたのは戦場で戦った兵士達の力に他なりません」 ナシスの賛辞は嬉しかったが、過大評価が過ぎる。そう思い否定したのだが、ナシスは首を横に振った。 「そのことを言っているのではありませんよ、ユリア。私が言っているのは、もっと昔…遠い昔の話です」 「え……?」 意味が分からずユリアは首を傾げた。遠い昔などと言ったら、子供の頃になってしまうではないか。そんな時に、この国を救う何かを成した記憶も無いし、そもそもそんなことが幼少の己に出来た筈が無い。何かの謎掛けなのだろうか。 困っていると、ナシスは再びユリアに笑みを向けた。 「私が言いたいことはただ一つです。国がどうとか余計なことなど考えず、あなたがしたいように動きなさい。私が何を視たところで、未来は必ずしも決まってはいないのです。あなたはあなたの手で、あなたの望む未来を掴み取ればいい」 「ナシス様……」 私の望む未来。それはいつだって、たった一つしかない。 「けれど……私はこの国も、この国に住む人々も皆好きなのです。やはり国のことを考えぬ訳にはいきません。でも私の望むことと、それは両立しないのです」 「ユリア」 ナシスは手を伸ばすと、固く握りしめられたユリアの手を、そっと包み込んだ。 「あなたはあなた自身を信じなさい。そしてあなたの信じる者を信じなさい。そう難しいことではない筈です。今までのあなたは、そうしてきたのだから」 「私の…信じる者を」 もやもやと迷っていた心に、ふっと風が吹いた気がした。 そうなのだ、確かに今までだって私一人で何かを成してきた訳ではない。誰かを信じ、誰かを助け、そして助けられてきた。 今までも、これからも、私に出来ることといえばたった一つしかない。誰かを、ただ信じるということだ。 「ありがとうございます、ナシス様。すっかり長居してしまって申し訳ありません」 ユリアは辞去する為立ち上がった。 「いいえ、構いませんよ。私も他国の話を聞けて楽しかったですから。またいつでも顔を見せに来て下さい」 「はい、ありがとうございます」 頭を下げ、部屋を出ようとしたユリアに、ナシスが呟くように声を掛けた。 「……国を救える者は他にもいるけれど、ジェドを孤独から救うことが出来るのは、あなたしかいないのですよ、ユリア……」 「え?」 うまく聞き取れず振り返ったユリアに、ナシスはただ微笑みを見せた。 「なんでもありません、ただの独り言です」 「そうなのですか…?」 ジェドの名が出たような気がし、少し気にはなったが、これ以上ナシスは口を開くつもりが無いようだったので、再び頭を下げ、ユリアは部屋を辞した。 |
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