133: 帰国





 フィードニアとスリアナ国の国境沿いに位置する小さな町の、小さな酒場にその男は居た。
 淡い茶色の髪はくせっ毛であちこちに跳ね、そばかすだらけの顔は連日の酒で常に赤い。その身体からは、横に侍らす女性達よりも強い香料の匂いを放っている。
 彼はチクリス国境警備隊長ではあったが、仕事は全て部下に任せたまま、こうして酒場で飲んだくれているのが常だった。先の戦いで国境がまた改められ、近々この警備隊もばらばらに移動することになるのだろう。勤勉に働いたところで、どうせ同じことだ。
「何が国境警備隊長だ」
 誰に言うでも無く、彼は呟く。国王の従弟という高貴な身分である己が、こんな田舎の国境警備隊などに居る現実を、彼は未だに受け入れてはいなかった。
 本来の自分であるならば、あの煌びやかな王城で暮らし、国王軍総指揮官としてフィードニア軍を動かしていた筈なのだ。此度の戦いで大きな武勲と共に凱旋していたのは、あんな平民上がりの男ではなく、この自分だった筈なのである。
 だというのに今の自分は、こんな片田舎のこんな小さな酒場でつまらぬ女を横に置き、安物の酒を飲んでいる。その惨めさに震えるほどの怒りを感じた。
(―――――それもこれも、あの男の所為だ)
 メルヴィンは手にしたグラスを強く握りしめた。内側にぴしりと亀裂が入り、女が嫌な顔をしたが、彼はそれを無視する。
 クリユス・エングスト。全てはあの男の姦計にまんまと嵌められた所為だ。卑劣なあの男の所為で、こうして自分は惨めな思いに耐えねばならぬのだ。
 折角目を掛けてやっていた恩を仇で返し、そのうえ奴は今、フィードニア国王軍の弓騎馬隊大隊長の座にまで上り詰めたという。このチクリスでの数ヶ月間分の鬱屈は、そのまま恨みとなってクリユスに向けられていた。
 いつか必ずあの男を引きずり落とし、何もかもを奪い取ってやるのだ。そして苦痛に歪んだあの綺麗な顔を、国王軍に返り咲いたこの俺が、高みから見下ろしてやる。
 己の足でクリユスの顔を踏みつけにする場面を想像しながら、メルヴィンは再び酒をかっ喰った。
「―――これは、荒れておりますなあメルヴィン様」
 どこか聞き覚えのある声に顔を上げると、いつから居たのかメルヴィンの斜め前の机に、初老の男が座っていた。
「お前は……!」
 思わず立ち上がる。聞き覚えがあるどころではない、メルヴィンはその男のことをよく知っていた。
「貴様、何しに来た。この俺の無様な姿を笑いに来たのか!」
「笑うなど、とんでもないことです。貴方様ほどのお方がこのような辺境の地に身をやつしておられることに、深く同情しております」
「何をぬけぬけと、そもそも貴様は……」
「国王軍に、戻りたくはありませぬかな」
 その言葉に、激していたメルヴィンの身体はぴたりと止まった。
「……何だと?」
 探るように、メルヴィンは男を見る。何かの罠か、それとも。
「貴方を罠に嵌めたクリユス・エングストを、さぞお恨みの事でしょうな。その恨みを晴らし、尚且つ国王軍に復帰する為の手柄を立てたくはありませぬか」
「……その手立てがお前にはあるというのか」
「なければこのようなことを申しませぬ」
 メルヴィンは唾をごくりと飲み込んだ。直ぐにでも飛びつきたい話ではあるが、ここは慎重にならねばならない。
「だが、おかしいではないか。なぜお前がクリユスに仇をなす話を持ちかけてくるのだ」
「それは、簡単なことです。彼はそもそも我らの味方ではない、ティヴァナの密偵だからですよ」
「な……んだと?」
 さらりとそう言う男に、メルヴィンは目を見開いた。
「ずっと前から私はそれを知っていました。王もご存知の事です。知っていて泳がせていた、彼は役に立つ男でしたからな。しかしここらで潮時であろうと、それだけのことなのです」
 男に目を合わせたまま逸らすことが出来ず、固まったままのメルヴィンに、彼は再び問いかけた。
「さて、メルヴィン様。積もり積もった貴方さまの恨みを晴らし、手柄をお立てになりたくはありませぬか」









 結局ユリアは、船上での十日間でもジェドに素直に謝る事が出来なかった。
 一応何度もチャレンジしてはみたのだが、顔を見るとつい憎まれ口を叩いてしまい、結局言えず仕舞いなのである。素直ではない自分のこの性格が、今ほど憎らしいと思ったことはないと、ユリアは海を眺めながら肩を落とした。
「フィードニアが近づいてきたな」
 突然声を掛けられ、ユリアの心臓は跳ね上がった。この船旅で知ったことだが、ジェドはあまり足音を立てずに歩く癖があるらしい。なので気付くとこうして側にいたりするので、心臓に悪い。だからつい動揺してしまうのだ。
「あ…ああ。あともう少ししたら、港も見えてくるだろうな」
「そうだな」
 ジェドはユリアの隣で、遠くの陸地を眺めている。もう少しでジェドとの船旅が終わってしまうのだと思うと、少し淋しい気がした。
「もう少し、旅していたかったな……」
 ぽろりと口から出た言葉に、ユリアは焦った。ジェドがちらりと視線を寄越したことに、更に汗が噴き出る。ジェドともっと一緒にいたいと願う自分の気持ちに、気付かれてしまったのではと思うと、顔から火が出そうだった。
「い、いや。フィードニアに戻るとまた塔に籠りきりの日々になってしまうからな。同盟の使者という使命を負った旅だったとはいえ、懐かしいティヴァナの地へ行けたし、色々な人にも出会えたし、中々楽しかったなと思ってだな…」
 自分でも何を言っているのかよく分からない状態で言い訳をしていると、ジェドの顔がどんどん不機嫌になっていった。
「ティヴァナは楽しかったか、それは良かったな」
 これっぽっちも良いと思っていないであろう表情で、ジェドはそう言う。
「そんなに楽しかったのならば、あのままずっとティヴァナに居ればよかったではないか。なんなら人質としてあの王に嫁げばよかったのだ」
「……は?」
 思わずユリアはぽかんとする。どうして突然ジェドが不機嫌になったのかが分からなかった。しかも何故ここでリュシアン王の名が出てくるのだ?
「何を言っているんだ、嫁ぐ? そんなことをしたら私はフィルラーンではなくなるではないか。フィルラーンではなくなれば、人質の価値など無い、それになんの意味があるんだ」
「五月蠅い、黙れ」
 ジェドが先に訳の分からないことを口にしたというのに、ユリアが反論すると一方的に話を打ち切りそっぽを向いてしまう。駄目だと思っていても、怒りが湧きあがってきた。
「ああそうか、それがお前の本心という訳だ。クルト王の命で私を迎えにきたものの、お前自身は私などずっとティヴァナにいればいいと思っているのだな」
「誰もそんなことは言っていない」
「言ったではないか!」
 己の中の冷静な部分が止めろと叫んだが、激高した自分を止める事が出来なかった。
「別に私だとて、お前なんかに迎えに来て欲しかった訳じゃないんだ……!」

 ―――――馬鹿じゃないのか、私は。
 船室に戻ると、ユリアは崩れ落ちるようにがくりと床に膝をついた。この旅の間に、何度この後悔を繰り返しただろうか。あまりに愚か過ぎて、情けなさを通り越し、既に呪わしい。
 船はもうすぐ港に着いてしまうのだ、今のが恐らくジェドに謝る最後のチャンスだっただろう。なのに謝るどころか更に暴言を吐いてどうするのだ。王都へ戻ってしまえば今のように頻繁には会えなくなるに違いない。時間が空いてしまえば、更に謝りづらくなってしまうではないか。
 駆け巡る後悔の中で暫くの間ユリアは悶々としていたが、意を決したように再び顔を上げる。
 もう一度、今からジェドの元に戻って謝ろう。
 悪態をついて逃げるように立ち去ってきたのだ、今再び顔を合わせるのは勇気がいったが、それ以上にこのまま城に戻りたくなかった。
 今度はもう、ごちゃごちゃ話をする前に、開口一番で謝ってしまおう。へたに会話をするから喧嘩になるのだ、そうだ、それがいい。
 そう決意し立ち上がった時、扉が叩かれダーナが顔を覗かせた。
「大変です、ユリア様……!」
 頬を赤くさせ、興奮した様子のダーナは、早く甲板へ来て下さいとユリアを促す。
「なんだ、どうしたんだダーナ」
「いいですから、お早く!」
 訳が分からず甲板に出たユリアは、思わず我が目を疑った。
 船室で逡巡していた時間が自分で思っていたより長かったのか、船はもう港のすぐ近くまで来ていた。いや、驚いたのはそれではない。港中に敷き詰めるようにいる、人の多さだ。
「なんなんだ、これは……」
 ジェドの帰国だからか? だがそれにしても、いつもの“英雄の凱旋”に集まる人々の数を、軽く凌駕している。
「ティヴァナとの同盟を締結させ、戦いを終結に導いた女神の帰国だからだろう」
 先程と同じ場所に立っていたジェドが、そう言った。私の為に皆集まった? とても信じられない。
 だが、それよりも―――。
「ジェド」
 ユリアはジェドの元へ駆け寄る。言うのだ、今ここで、謝るのだ。ユリアは大きく息を吸い込んだ。
「あ…あの、さっきは、言い過ぎた。迎えに来てくれたことは、う、嬉しかったんだ。それに、ティヴァナでも酷いことを言ってしまって、済まなかった。あの……」
 しどろもどろではあるが、一気に口にした。ジェドが驚いたように、少し目を見開いた。
「……いや」
 ジェドが言葉を続けようとした時、港から大きな歓声が飛び込んできた。割れんばかりというのは、こういう事をいうのか、もう隣にいるジェドの声でさえ、聴きとるのが難しいくらいだ。
 船は港へ入っていく。まるで祭りのように、紙吹雪や花びらが舞っていた。人々が船に向かい、手を振っている。「ユリア様」と彼女の名を呼ぶ声が、あちこちから波のように聞こえた。
 私の帰りをこんなに多くの人々が歓迎してくれているというのか。本当に?
 戸惑っていると、ダーナがユリアの耳元で声を張り上げた。
「ユリア様、皆に手を振り返してあげて下さいまし…!」
 おずおずと手を振ると、それに答えるように歓声が返ってくる。自分が必死でやってきたことが、皆に認められたということなのだろうか。まるで夢の中にいるようだった。

 船が船着き場に着き、ダーナに促されるまま船を降りようとすると、階段の手前でジェドがユリアに向け手を差し伸べた。
「えっ……」
 戸惑うユリアの手を掴むと、ジェドはさっさと歩きだす。
「ジェド? いったい……」
「いいから、黙っていろ」
 何がなんだか分からないまま、ジェドに手を引かれユリアは階段を降りる。皆の歓声にドキドキしているのか、繋がれたジェドの手の温かさにドキドキしているのか、もうそれすらも分からなかった。
 地面に降り立つと、観衆の中でジェドはユリアに向かい合い、そのまま片膝を付いた。そして胸に手を当て、頭を軽く下げる。それは普段めったに頭を下げぬ“英雄”の、最大級の儀礼であった。
 今日一番の歓声が沸き起こった。まるで嵐だ。
「ジェド……」
 顔を上げたジェドと目が合いはっとした。ああそうか、これはジェドなりの“詫び”なのだ。
 ユリアの謝罪を受け入れ、そしてジェドも私に対して詫びてくれているのだ。俺も言い過ぎた、とその目が言っている気がした。







「なるほどねぇ……」
 同時刻、同場所。船着き場を見下ろせる酒場の屋根の上で、他の野次馬に混じり片腕の青年は呟いた。
「なんだ、何か言ったか?」
 隣で声を張り上げていた男が、青年の方へ振り返りそう聞いた。
「何でもないよ。フィルラーンのユリア様って綺麗な人だなあって言ったのさ、こんな遠くから見ても光り輝いてるのが分かるよね」
 その言葉に、なぜか街の男は誇らしげに言う。
「そうさ、兵士達の間では戦女神だって言われてるらしいぜ。大国ティヴァナとの同盟を結び、こうして戦いを終わらせて下さった、今じゃ我らフィードニア国の民にとっても、女神さまだからな」
「ふうん、そっか。確かに、女神さまに違いないや。……俺にとってもそうなりそうだよ」
 片腕の青年はからからと声を上げ、楽しそうに笑った。
 隣の男は、既に青年の呟きなど聞いてはいない。遠くの女神と英雄に歓声を届けるのに夢中になっていた。
 青年は船着き場に目をやったまま、細い目を更に細める。
「……弱点、見ぃ〜つけたぁ」
 くすくすと笑うその声は、街中の歓声の中に溶けて消えた。


















TOP  次へ





inserted by FC2 system