127: 夜襲3 暗殺部隊の夜襲から一刻も経たぬうちに、トルバの本軍は攻撃をしかけてきた。 逡巡する暇は無かった。結局ハロルドはここに留まることを選択し、そしてトルバ、グイザードの両軍と相まみえることとなった。 夜襲により多くの兵士を失い、残された者達の疲弊も極限に達している。ハロルド自身、負傷したこの右腕でどこまで戦えるのか分からない。 状況から考えると、ここは退くべきだ。理性は彼にそう訴えかけたが、それでもここを動くことが出来なかった。ここで退いてしまえば、彼にとって重要で大きな‘何か’を手放してしまうような気がしてならなかったのだ。 それにどこかジェドの到着を信じて疑っていない己もいた。堪えていれば必ずジェドがやってくる筈だ、そして我らを勝利へ導いてくれる筈だ――――。そんな思いが、心の奥底に沈殿している。彼と共に戦うようになってから、まだ一年半足らずだというのに、ここまで信頼を寄せている己に幾分驚きを感じさえもする。これが一番上に立つ者が備えるべきカリスマ性というものなのか。 ――――あなたにはこれからのフィードニアを背負って頂かなくてはならぬのですから。 さっきは気にとめなかったが、ふとクリユスの言動にひっかかりを覚えた。あれは、言葉のアヤだろうか。 副総指揮官であるハロルドに向ける言葉にしては些か重い。それではまるで、総指揮官を相手にした言葉のようではないか。 ハロルドは頭を横に振る。いや、やはり言葉のアヤであろう。ジェドは総指揮官ではあるが、戦いのさなか単独行動を取ることが多い。先の副総指揮官であったライナスは、代わりに総指揮を執っていたではないか。そういった意味合いで発せられた台詞なのだろう。 「弓騎馬隊は前へ出て一斉に矢を放て、全軍、少しづつ後退するぞ」 「は!」 ハロルドは再び目の前の敵に意識を戻す。一刻足らずの短い時間で練った戦略は、たった一つのみだった。 退路に続く狭い土地へ後退し、そこで連合軍を迎え撃つ。狭い土地ならば相手が大軍であろうと、一斉には攻めてこられぬからだ。そこで少しづつ相手を削りながら、延々と続く攻撃に耐え抜く。それだけだった。 誘い込んでいると相手に悟られぬ程度に、フィードニア軍はじりじりと後退を続けた。そして目的の場所へ辿り着くと、弓騎馬隊を後方へ下がらせ、代わりに大きな盾と重装備で身を包んだ歩兵隊を前へ出す。こういった守りの戦いは、歩兵大隊長であるブノワの得意とするところだった。 重装備隊が前列で固まり、盾を壁のように並べ敵の進行を押し留め、そしてその隙間から槍を突き出し敵を倒してゆく。それを突破した敵兵を、ハロルド含めた騎馬隊が切り伏せていった。 地形の上ではこちらが有利な状況へ持ち込めたが、いかんせん兵士の数が圧倒的に負けている。一度に戦う兵力は制限できたとしても、その後ろに続く兵力は無尽蔵のごとくに感じられた。 いつまで持ち堪えられるのか。己の右腕と共に不安は尽きぬが、それでも何とか耐えてみせねばならない。 猛攻を耐えに耐え、永遠とも感じる数刻が過ぎ、そして陽が落ちていく。今日一日をそのまま何とか乗り切ったのは、最早奇跡に近いとハロルドは思った。 日が沈み撤収していくトルバ軍を見ながら、安堵の溜息を吐いたのは、一人二人ではないだろう。それはハロルドもまた同じだったからだ。 だがしかし、その安堵も束の間のことだった。己の考えが甘かったことを、ハロルドは直ぐに思い知ることとなる。 その日の夜半、再びトルバの暗殺部隊が夜襲をしかけてきたのだ。 考えが甘かった。やはりあの時退却を決断するべきだったのではないか。剣をがむしゃらに振りながら、彼は何度も自問自答を繰り返した。 兵士の中には、連日の猛攻に耐えかね、既に戦意を失っている者もいる。だがそれも無理のないことだろう、むしろ逃亡者が続出しないのが不思議なくらいである。 もしこの襲撃を何とか凌いだとしても、それに続くトルバ本軍との戦いに耐えうる力は、もはや残らぬだろう。 耐えきってみせるなどと考えたのが愚かだった。愚かな己の決断により、フィードニアの多くの兵が命を落とすことになり、そして敗戦への道筋を今つけようとしている。 悔やんでも悔やみきれぬが、今更己の失態を呪ったところで遅かった。ここはもう、ただ耐え抜くしか残された道は無いのだ。 ハロルドは負傷した腕を酷使しながら、暗殺部隊兵を切り伏せていく。目の端ではあの老爺を探したが、どこにもその姿を見い出すことは出来なかった。 (―――――いない?) ハロルドの胸中に微かな不安がよぎる。 無論いないのならば、それに越したことはない。あの手練れの老人が一人いないだけで、こちらの痛手は随分抑えられる筈だからだ。そのほうが我々にとっては好都合である。 ではあるのだが、しかしなぜこの場に暗殺部隊長であるあの老人がいないのか、それがどうにも不可解だった。 「ええい、くそ…!」 考えていても仕方がない、向こうの思惑はどうあれ、兎も角今あの老爺がここにいないことはありがたい。そんなことを気にするより前に、戦いに集中するべきではないか。 傷口を締め上げた包帯はもう用をなさず、溢れる血は外衣までもを染め上げている。さらに右腕は変色し腫れ、既に感覚を失っていた。 先程から剣を左に持ち変え戦っているが、この場にあの老爺が現われていたら、耐えるどころか一撃で倒されたことだろう。情けなくはあるが、それがまきれもない事実なのである。 「ハロルド殿、負傷者が続出しております。ここは一度撤退すべきではありませんか」 フリーデルが駆け寄ってきて、彼にそう提言した。 「もうこれが限界です、このまま戦いを続けていても、全滅しか道はありません」 普段は憎らしいほどに冷静で表情を崩さぬフリーデルの顔にも、深い疲労と焦りの色が浮かんでいる。 ここまでか。 ハロルドは力なく、剣を降ろした。フリーデルの言う通り、耐えに耐えていられるのもここまでであろう。 これ程の犠牲を出し、成すべくもなくただ撤退せねばならぬとは。無念の一言では表せぬ程の悔しさが胸中を襲ったが、彼はそれを無理矢理心の奥底に押し込める。 「分かった、撤退する。フリーデル、全軍に撤退命令を出せ」 「は」 フリーデルが頷きかけたその時、遠くの方で鬨の声がした。 あれは、グイザード軍が陣営を敷いている場所の方向か―――。 「何事だ、第一中隊は斥候を出し状況を確認しろ」 「は!」 背筋がひやりとするのを感じた。我らの撤退を予見し、更なる攻撃を仕掛けようというのか、それとも―――――。 どこからか笛の音が聞こえ、それを合図に暗殺部隊兵が風のように消え去った。残されたフィードニア陣営は緊迫を緩めず、ただじっと斥候の戻りを待つ。 救護兵に肩傷を手当てしてもらいながら、ハロルドは耳を澄ませた。斥候を待つまでもない、これは戦乱の音だ。既に戦いが始まっているのだ。 治療を終え、上級将校たちが集う天幕へ足を運ぶと、皆が皆、期待を感じ取っている目をしていた。皆予想はついている、だがハロルドと同じく、斥候の報告を聞くまではぬか喜びせぬよう己を律しているのだろう。これ程に待ち遠しいと思う時もそうは無かった。 「斥候が戻りました……!」 兵士の声に、ハロルドは思わず立ち上がる。 一人の兵士が天幕の中へ入ってくると、息を切らしながら言った。 「総指揮官殿が……ジェド総指揮官殿率いる別働隊が、グイザードの陣営後方部へ到着し、現在グイザード軍と交戦中です……!」 歓声が沸き起こった。 我々は耐えきれたのだ。ハロルドは横に立つブノワと、がっちりと肩を組み合った。 |
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