124: 薄氷上の王





「あ痛ぁっ!」
 そう叫び顔を顰める男を前に、ユリアは顔を青褪めさせた。
「ご、ごめんなさい。きつく縛り過ぎましたか」
 おろおろとする少女を見て、男は仕方が無いとばかりに肩を竦めた。
「まあいいさ。こんな綺麗な女に手当てして貰ってんだ、文句なんか言ったら罰が当たるってもんだ」
 違いない、と隣の診療台で同じく治療を受けている男が口にし、診療所内がどっと沸いた。
 彼女が今いる場所は、国王軍の兵舎脇にある救護室兼療養所である。戦場へすぐに復帰出来ないほどの傷を負った国王軍の兵士は、一旦王城へ戻されこの療養所で治療を受けている。ユリアはここ数日の間、城の侍女の衣服を身に着けフィルラーンである身分を隠して、怪我をした兵士達の治療の手伝いをしていた。
「ねえちゃん、今夜一緒に飲まないかい?」
「えっ……いえ、あ、あの」
 口説いてくる男への対処に困っていると、ずいとダーナが二人の間に体を割り込ませた。そしてユリアの腕を掴んでいる男の手を、ぴしゃりと叩く。
「何を言っているんですか、ご自分が怪我人だということをお忘れですか? 今夜だけでなく、当分の間飲酒は控えて下さいませ!」
「おっと。はいはい、分かりましたよ。全く、こっちのねえちゃんには敵わねえや」
 屈強な兵士が小さな少女に叱られる姿に、再び診療所内にどっと笑いが起こる。これらの光景は、ここ数日の間何度となく繰り返されてきたことだった。
「驚いた―――いったい、ここで何をなされているのですか」
 その声に振り返ると、診療所の入り口で驚愕に目を丸くさせたティヴァナ国の国王リュシアンと、困り果てた顔をした弓騎馬隊大隊長マルセルが立っていた。
「何って…見ての通りです、怪我人の包帯を代えているのですよ」
 見つかってしまったと内心では頭を抱えたが、ユリアは至極当然のことを口にするかのように、にこりと微笑んでみせた。
 この診療所を手伝うことは、言うまでも無く王の許可などとってはいない。言った所で許可など降りようはずが無いことは、ユリアにも分かっている。故に彼女の護衛兼監視役であるマルセルの目を盗んでは、こうしてここへやってきていたのだ。
 とはいえここで王と悶着しフィルラーンである身分を皆に知られてしまっては、今後ここで手伝うことが出来なくなってしまう。ユリアはさり気なく療護室から外へ王を連れ出した。

 フィードニアとティヴァナの同盟が締結し、本格的に開戦したティヴァナは今、コルヴァス国を中心とした主に東側の国と戦っている。
 フィードニアから随分と離れた地にいるユリアには、フィードニアの為に出来る事といえば、こうしてただこの国に留まり、人質としての役目を全うすることしかなかった。
 しかしただじっとしている事は性に合わない。せめて同盟国であるティヴァナの役に立ちたいと思ったのだが、この地にもフィルラーンがいる以上、清めの儀式を行う訳にも、彼らの為に祈りを捧げる訳にもいかなかった。だからせめて、ユリア個人として出来得る手伝いをしようと思ったのだ。
 無論フィードニアを属国にしようとするティヴァナの思惑が気にならぬ訳ではないが、今はただこの戦いが終結することだけを願い、一時だけそれを忘れることにした。
「お止め下さいご使者殿。我が国の客人に、ましてやフィルラーンである貴女にそのような事をさせる訳には参りません」
 王は困ったような表情を浮かべたが、ユリアは首を横に振る。
「同盟が締結された今、私を客人と思う必要はありません。それに何かしていないと落ち着かぬのです。どうぞやらせて下さい」
「いや、しかし」
「何度も申しあげておりますように、そのようなことをなされては、こちらが困るのです」
 王より一歩後ろに立つマルセルが、顔を顰めながら言う。
 どうやら何度止めても部屋を抜け出すユリアに困り果て、説得してもらおうと王をここへ連れてきたのはマルセルのようであった。だが彼女は例え相手が王であろうとも、大人しく説得されるような少女ではなかった。
「心配ありません。これでも応急手当くらいならば習っていましたし、フィードニアでは実際に戦地で手伝ってもいました」
「なんと」ユリアの言葉に二人の男は揃って目を丸くした。
「フィルラーンの貴女が戦場へ行くなどと、到底信じられません。いや、確かに噂には聞いてはいたが、“戦女神”の名を響かせる為、戦略上で流しただけの偽話だと……」
「まあ、戦略などとはとんでもありませんわ!」
 今までユリアの脇に控えていたダーナが、憤りを露わに口を挟む。
「ユリア様はとてもお優しい方なのです。地方の兵士達の為に、遠方へわざわざ赴き清めの儀式を行ったり、傷付いた兵士を放っておけず戦場へ同行したりしているうちに、いつしか彼らがユリア様を“戦女神”と呼ぶようになったのですわ」
 実際の所それらの行動のほとんどがクリユスの戦略によるものなのだが、憤怒するダーナの前でそれを口にすると、自分まで彼女に叱られそうな気がしたので黙っておいた。
「ふうむ、兵士に寄り添うフィルラーンですか。それはさぞかし兵士達の士気も上がることでしょうね。これは益々貴女に我が国のフィルラーンとなって頂きたくなりました」
 冗談っぽく言ってはいるが、その目にはどこか真剣味があり、思わずユリアは王から目を逸らす。
 ティヴァナ国のフィルラーンは確かに老齢であり、次のフィルラーンも未だ現れてはいないのだ。しかし方やフィードニアには若年のフィルラーンが二人居る。同盟の均衡が崩れフィードニアがティヴァナの支配下に落ちた時には、どちらかのフィルラーンを自国のものとしようと考えるのは、国の安泰を一番に考える王として当然の成り行きなのかもしれなかった。
「ところで、戦況はどのようになっているのでしょうか。連合国との戦いに終わりは見えぬのですか?」
 話を逸らすように、ユリアは王にそう問うた。戦いが終わった後の己の処遇などよりも、ユリアの関心ごとは目下のところそれにつきるのだ。
「先王や兄がいない今、ティヴァナ軍は確かに以前と同じという訳には参りません。しかし西の国々をフィードニアが抑えてくれている以上、近隣の国々に負ける程脆弱な軍ではありませんよ」
 ティヴァナ国王はそう強く頷いて見せる。
「そうですか、それを聞いて安心致しました。一日でも早く戦いが終結することを祈っております」
 ユリアは心からそう言った。
 エルダとライナスのような、そしてロランのような不幸な死を、もうだれにも迎えて欲しくはない。
 ユリアの手を握りしめながら死んでいったサイモンのように、そして同じように戦場で命を落とした名も知らぬ数多の兵士達のように、もう誰の命も失われて欲しくはないのだ。
「無論、早々にも連合国とは決着を付けたいと思っておりますが、しかし現在コルヴァス国との戦いで少々手こずっているいるようです。私も王城とご使者様の護衛を外れ、戦場へ向かいたいと考えておりますが、宜しいでしょうか」
 マルセルが王とユリアに視線を送りながらそう告げた。
「勿論私は構いません。連合国の密偵も捕まった今、王城の奥にいる私に何の護衛が必要でしょうか。ましてや国王軍弓騎馬大隊長のマルセル様に護衛して頂くなど、過分な扱いです」
「過分などということはありませんよ、ご使者殿。フィルラーンの貴女には、どれ程礼を取っても足りぬ位です。だがマルセル、行ってくるがいい。ご使者様には別の兵士を護衛に付かせよう。……ティヴァナ国王軍を頼んだぞ」
「は」
 マルセルは深く頭を下げると、王城の方へ戻っていった。『近隣の国々に負ける軍ではない』と王は強気な事を口にしてはいるが、戦況はどうやら苦戦を強いられているようである。

「貴女の気持ちも、分からぬではないのです」
 マルセルの背を眺めながら、王は呟くように言った。
「え?」
「私は何も出来ぬ王なのです。偉大な先王のように、彼らと共に戦場で戦う事も出来ず、ただこうして待つことしか出来ない。不甲斐無い己が恨めしくてなりません。だから少しでも何か出来ぬかと思う気持ちは、とてもよく分かるのです」
 その瞳がとても悲しげで、ユリアの胸は痛んだ。
「そのようなことはありません、いくら先王が偉大であろうとも、同じでなくてはならぬ道理は無い筈です。貴方は貴方のやり方で、王であれば良いのではないでしょうか」
「そうでしょうか。何も出来ぬ王など、その辺に転がる石と同じだ。居ても居なくても同じようなものです」
 吐き捨てられたその言葉は、ユリアに対して発せられたというよりも、自問の言葉のように感じられた。恐らく先王が亡くなって以来ずっと、この若き王は薄氷の上を歩くような日々を送ってきたに違いない。
 初めてリュシアン王にお目通りした時の、彼のぴりりとした眼差しをユリアは思いだした。
「いいえ、それは違います。考えてもみてください、先王やお兄様が亡くなられた時、もし貴方の存在がなかったら国はどうなっていたでしょう。国は大きく混乱し、我がフィードニアと同盟を結ぶこともなく、あっさりと連合国に蹂躙されていたのではないでしょうか。何も出来ないなどということはありません、貴方が王であるというだけで、この国は国であり続けるのです」
 リュシアン王は些か驚いたようにユリアに視線を移すと、ふっと笑った。
「私が王であるというだけで、国は国であり続ける……なるほど、そうかもしれません。フィルラーンの貴女にそう言って頂けると、随分と慰められます。しかし、ならば貴女もそうなのではないですか」
「え?」
 言われた言葉の意味が分からず、ユリアは首を傾けた。
「貴女がフィルラーンとしてそこに居るだけで、民の心は安寧としていられるのです。ならばもう良いのではありませんか。貴女は既にフィードニアの為、様々な事をしているではありませんか。戦場へ出向き戦女神となり、人質覚悟で我が国にまで来られた。これ以上、そのように頑張らなくともよいのではありませんか」
「そのような……」
 王を慰めていた筈が、思いかけず逆に慰めの言葉を貰い、ユリアは目を瞬かせる。
『頑張らなくともよいのではありませんか』
 その言葉はユリアの心を揺さぶったが、しかし彼女は首を横に振る。
「いえ、そのような訳には参りません。私はフィルラーンとして不出来な身ゆえ、これでも尽力が足りぬ位です」
 たった一人に対しての罪滅ぼしでさえ、こうも上手くいかない。結局私は、足掻くだけ足掻いているのみで何一つ成せてはいないのだ。
 ジェドに会いたい、とユリアは思う。
 彼が放つ辛辣な言葉が、無性に懐かしかった。憎しみの眼差しで良いから、その目を見たいと思った。
 それだけでこの弱い心を奮い立たせることが出来る。そう思った。












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