120: 全軍撤退命令 カベル王はフィードニアに、というより死の神を前にしあっさりと降伏した。 そしてジェドはカベルから五個中隊の国王軍と、領兵軍二万の兵を借り受け、そのまま南のスリアナ国へと進軍させた。成程、カベルへはこれを見越してのたった二個中隊での出兵だったのである。 「さっきの留め具……トルバ国王軍総指揮官を暗殺したのは、ジェド殿だったのですか」 スリアナへ向け馬を歩ませながら、ラオはジェドに問うた。 「ああ、これか」 ジェドは懐から例のマントの留め具を取り出し、ラオへ放り投げた。 「これは」 よくよく見てみると、トルバ国王軍の紋章が刻まれた宝玉を留める金具の部分に、微妙な歪みがあった。そう、例えば元からあったものを一度取り外し、再び付け替えるとこんな風になるかもしれない。 「ひょっとすると、偽物ですか」 「そういうことだ」ジェドはにやりと笑った。 「なんだ、驚いた。俺は本当にジェド殿があの『メトプス神』なのかと、内心ビクビクしてましたよ」 アレクが二人の間に割って入り、ほっとしたようにそう口を挟む。ジェドにビクビクしていたのはその一件より前からだろうに、都合よくそれを忘れている。調子の良い奴だと、ラオは内心苦笑した。 しかしこの留め具は偽物かもしれないが、だからといってジェドが例の『メトプス神』では無いということにもならない気がした。 そもそも仮にジェドがトルバ国王軍総指揮官を暗殺した本人だったとして、わざわざ戦利品を持ち帰ってくるような性格では無い。それに例え計略だとしても、他者が行った武勲を自分のものとして語るなど、この男のやることだとも思いにくかった。 第一、実際あんなことをやってのける者など、本物のメトプス神以外にはジェドしか考えつかぬではないか。 「メトプス神を騙って降伏させるなんて、策士ですねジェド殿。あんなに簡単にいくなら、他の国も同じ方法で降伏させたらいいんじゃないですか」 能天気に言うアレクの頭を、ラオはぽかりと叩く。 「馬鹿言え、信仰心が殊更強いカベルだったから通用した反則技ではないか。楽ばかり考えるな」 「ちえっ、言ってみただけじゃないですか。いちいち殴らなくてもいいのに」 アレクはぶつぶつと呟くと、口を尖らせる。 「おい、無駄話はそれくらいにしておけ。そろそろ馬を急がせるぞ、五日後にはスリアナを攻める」 ジェドは皆にそう告げると、先に馬の歩みを速めた。 「は」 ヴェルナーが軍全体に伝令を出した。ラオは手綱を持ち直し、馬の脇腹を軽く蹴る。 カベル兵を加えた別働隊は、スリアナ国へ向かい馬を走らせた。 一方その頃フィードニア本軍は、別働隊と同じくカベルの国境を通り抜けトルバ国へ進軍し、王都より三〇リュード(約36キロ)手前の地点でトルバ軍と開戦していた。 戦況はフィードニアがやや押している。順調な滑り出しだった。 「攻撃の手を緩めるな、気を引き締めろ!」 目の前の敵を切り伏せてから、ハロルドは周りの兵士達に向かってそう檄を飛ばした。 副総指揮官の地位に就いてから、小競り合い程度の戦いを除けば初めての大舞台である。ここで失態を晒す訳にはいかなかった。 「第二騎馬中隊、第六騎馬中隊は右方へ回り込め、壁が薄くなっている所を集中攻撃し、一気に突き崩せ!」 「は!」 ハロルドは小さく息を吐くと、少し伸びた前髪を掻き上げた。 順調過ぎる。 今までの経験上、トルバはこれ程簡単な相手では無い筈である。確かに国王軍総指揮官の不慮の死により精彩を欠いているのかもしれないが、それにしてもこうも上手くこちら主導の戦いに持ち込めてしまうと、些か気味が悪い。杞憂かもしれないが、トルバに何かしらの思惑があるように思えてならなかった。 剣を振るいながらも、ハロルドは油断なく全体を見渡した。 ジェドが別働隊として本軍を離れている以上、今この場での総指揮は己に委ねられている。ほんの一年前はリュトーという辺境の地で、先の見えない己の現状に腐っていたこの自分が、である。 その幸運を思うと胸が熱くなった。そしてもう二度とあそこには戻りたくないと、強く思う。 これから先の連合国との戦いは、必ず勝ってみせる。そしてこの大国フィードニアの国王軍で、不動の地位を築くのだ。 「弓騎馬隊は中央奥に弓を打ち込め、中央を崩し前方を叩く、トルバの陣形を崩すぞ」 矢継ぎ早に指示を出していると、フリーデルの後任として第五騎馬中隊長になったゼルマンがハロルドのところへ駆け寄ってきた。 「副総指揮官殿、およそ一〇リュード(約12キロ)後方にグイザード軍を確認しました。現在こちらに向かい進軍中です」 「なんだと」 想定より三日も早い援軍の到着に、ハロルドは息を呑みこんだ。 この速さはフィードニア軍の進軍の報を受けてからの動きではないだろう。恐らくティヴァナとの同盟を聞きつけた時に、こちらの進軍を見越して既に軍を動かしていた筈である。 フィードニア内に内通者はもういない筈ではあるが、変わらぬその情報網には舌を巻く。 ハロルドは顎に散らばる無精髭を指で撫でると、再び声を張り上げた。 「全軍攻撃を止め、後方へ撤退しろ!」 「全軍撤退とは、一体どういうつもりなのですかな」 自軍優勢の中、驚愕する兵士を無理矢理撤退させたのである。歩兵大隊長ブノワが仏頂面でこうハロルドに詰め寄ってくるのも無理のないことだった。 「グイザード国からの援軍が既に一〇リュード後方まで来ている。挟み撃ちにならぬよう今は撤退しておいた方が良いと判断したのだ」 「一〇リュード!」 納得出来ぬといった風に、第二騎馬中隊長マルクが声を上げた。 「確かに予想外の早さですが、それでもまだ一〇リュードも離れているということではないですか。ならば挟み撃ちにされる前にトルバを倒せば良い。それを撤退とは、腰抜けもいいところだ」 後半がぞんざいな口調になったのは、マルクのハロルドに対する反発心のためだろう。実力は認めたものの、それでも副総指揮官という地位に敗国の兵士が立つという事態を、そう簡単に割り切れるものでもない。彼のように腹の中に反発心を抱えている者は、少なくはないだろう。 だが例えそうであっても現在のフィードニア国王軍副総指揮官はこのハロルドなのである。遠慮する気も、引く気も無かった。 「一〇リュードの距離など数刻の時間稼ぎにしかならぬ。それまでにトルバ軍を倒すことなど到底無理だ、今無理にトルバに攻撃をしかけて、それで退路を失うわけにはいかぬ。それならばトルバとグイザードが揃ったところを共に叩いた方が良い」 「しかし折角我が軍が押していたものを、この機を逃すのは些か惜しくはありませぬか。倒すまではいかなくとも、今のうちに少しでも痛手を負わせておいた方がいいのではと、わしは思いますが。両国が揃えば明らかにこちらの戦力の方が分が悪いですからな」 ブノワがそう提言するのを、マルクがしたりとばかりに頷く。 「私もそう思います。第一退路など考えなくとも、勝てば良いのだ」 「私はハロルド殿のご意見に賛同致します」 鼻息を荒くする二人の前に冷静な声で割り込んだのは、クリユスだった。 「先程我が軍が優位に立っていたのは、私にはトルバの戦略、見せかけだけのことに思えてなりません。こちらが勢い付き、攻撃の手を緩めぬよう誘導されているように感じるのです」 「それは、考え過ぎではないのか」 ブノワが首を捻る。 「それならば良いのですが、しかし最悪の事態は常に想定しておくべきだと思います。そしてこの場合の最悪の事態とは、このままトルバに攻撃をしかけるもグイザード軍到着まで決着がつかず、更に今確保してある退路をまでも失い、両軍に挟み込まれることです」 「ううむ……」 渋い顔をして黙り込んだブノワだったが、どうやら既にクリユスに説得されかかっているようである。彼は常からクリユスに対し信頼を寄せている風であるから、折れるのも時間の問題といった所だろう。 そんなブノワの様子を瞬時に感じ取ったマルクは、更に声を荒げた。 「しかし退路はここだけでは無い。トルバが陣を敷いている場所からならば道は二つに分かれていますし、右方に広がる森を抜け出ても良い」 「さて、それはどうかな」 ここで今まで黙って話を聞いていた騎馬隊大隊長フリーデルが口を開いた。 「トルバの狙いがハロルド殿の言われる通りに我等を袋の鼠にすることであるなら、既に残りの退路には手を打たれているだろう。もう一つの道は既にトルバに抑えられているであろうし、森には罠が張られているやもしれぬ。ハロルド殿、試しに斥候を森にやってみます。何も無ければ改めてトルバを攻めるということで、手を打たれてはどうでしょうか」 「ああ、それでいい。皆もそれでいいか」 ハロルドが皆を見渡すと、ようやくそれぞれが納得の顔を見せ頷いた。 「分かりました」 「私もそれに従います」 ハロルドは頷き返すと、諜報部隊である第五騎馬中隊長ゼルマンに斥候を出すよう指示をする。 そしてそれを合図とするかのように軍議は散会し、それぞれがそれぞれの持ち場に戻り、ただじっと斥候の帰りを待った。 ハロルドは天を仰ぐ。太陽はやっと天頂に昇った所だった。 長い一日になりそうだと、彼は思った。 |
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