12: 試合1





 目を覚ましたユリアを襲ったものは、激しい頭痛だった。
 そして、この体のだるさはどうだろうか。
 もう二度と酒など飲むものか、とユリアは心の中で固く誓った。
「お早うございますユリア様。 ―――まあ、ご気分が優れませんか? 顔色が良くないですわ」
 いつもより遅く寝室から出てきたユリアを、ダーナが笑顔で迎えた。
「ええ…昨夜はお酒を飲み過ぎてしまったようです。舞踏会の途中からはっきりと覚えていなくて……どうやって部屋へ戻ったのかさえも分からないわ……」
 何か失態をしでかしていなければいいが、とユリアは思う。
 フィルラーンとしての威厳を自ら失墜させる事など、あってはならぬのだ。
 それはユリアだけではなく、同じフィルラーンであるナシスにも迷惑を掛ける事になってしまうのだから。
 そしてそれとはまた別に、空白の記憶の中に何か心の奥底に引っかかるものをユリアは感じていた。
 思い出さなければという焦燥感に似たものがある。だがそれと同時に、思い出すべきでは無いという思いも有った。
 第一何かを思い出した所で、それが良い事であるともユリアには思えなかった。

 ダーナは気分が少しでも楽になればと、冷たい水を汲んで来てユリアに差し出した。
 ユリアは礼を言い、それを飲み干す。
「それにしても、昨日のユリア様の美しさといったら……まるで天使のようでしたわ」
 ダーナがうっとりと言う。
「あのジェド様とのダンスも、まるで物語に出てくる王子とお姫様のような……あ、あの…ユリア様はお嫌でしょうけども……」
 失言だったとダーナは言葉を濁す。
「そう……あなたがそう思うのだったら、私は役目を果たせたという事ね。いいのです、私は皆が期待する、この国の“英雄とフィルラーン”という役を演じてみせたのですから」
 あれだけの屈辱を耐えたのだから、それは意味を成さなければならない。それだけだ。

「ユリア様、朝食はどうなされますか? 食欲が無いのでしたら、スープだけでも召し上がって下さいませ」
「ええ、そうね……そうするわ」
 食堂へ行くと、ラオとクリユスがゆったりと茶を飲んでいる所だった。既に食事は取り終えた後のようだったが、ユリアを待っていたのだろう。
 彼女の姿を認めると、クリユスはその場に立ち上がり「お早うございます」と笑顔を見せた。
 だが直ぐにユリアの優れない表情を見て取り、その整った顔を歪ませる。
「何と…ユリア様は二日酔いですか。それはいけない、女性が苦しむ顔を見る事程このクリユスにとって辛い事はありません。二日酔いに良く効く薬草を持っていますから、それを飲まれるといいでしょう」
「ああ……済まないな、クリユス」
 クリユスは一旦席を外し、程無く薬草を片手に戻ってきた。
 ダーナは早速それで茶を入れ、ユリアに差し出した。それは苦い茶だった。

「昼には治るといいけどな。メルヴィンという男との試合に、お前も立ち合って貰わねばならん」
 苦さに顔をしかめるユリアに、ラオが言う。
「ああ…それは勿論。お前達二人は私の客人だ、私が立ち会わぬ訳にはいかないだろう。……必ず勝ってくれよ、二人とも」
 メルヴィンは血筋の良さから大隊長という地位を手にしてはいるが、だからといって全く弱い訳でも無い。
 だがここで負けてしまっては、全てが終わりなのだ。
「おい、誰に対してものを言っている?」
 ティヴァナ国の副総指揮官だった男に対し、無用の心配だと言わんばかりに、ラオはにやりと笑ってみせた。
「何を、ユリア様のおっしゃる通りだ。昨夜のような失態をしてくれるなよラオ。全くお前の踊りは見られたものでは無かったよ。何度ダーナ嬢の足を踏んでみせた事か……」
「お前、見ていたのか…! あ…あれは……だから俺は踊りなど出来んと何度も言ったのにだな……」
 顔を赤くさせ怒るラオを、クリユスは尚もからかった。
 そんな二人の様子に、ダーナがユリアにこっそりと耳打ちをする。
「私の足を踏むたびに、顔を青くさせるラオ様のお可愛らしさったらなかったですわ」
「まあ、それは私も見たかったわ。見逃してしまって残念だこと……」
「おい、二人で何を話している……?」
 クリユスの首を締めながら、ラオは笑う少女二人をじろりと睨んだ。









 クリユスの薬草が効いたのか、昼にはユリアの体調も大分楽になっていた。
 訓練場の一角には試合を行う為の広場があり、その周りをぐるりと取り囲むように柵が立っている。
 更にその周囲には、一段高い所に客席が作られていた。
 そこは既に多くの兵士達で埋め尽くされている。彼らは今日の主役達の登場を、今か今かと楽しみにしているようだった。
「兵士達には普段あまり娯楽が無いですからね」とライナスが言った。
 王に二人の処遇を任されたライナスは、見届け人としてそこに居るのだ。
 ふいに歓声が上がった。皆の視線を追うと、メルヴィンが剣を携え登場するのが見えた。
 彼が群衆へ向かい手を上げると、それに応えるようにまた歓声が大きくなった。
「これは……メルヴィンに賭けた者も多いと見えますな。まあ自軍の大隊長ですから、ひょっこり現れた他国の男にあっさりと負けて欲しくは無いでしょうが」
 ライナスは指で顎を擦りながら言う。
「な……皆この試合で賭けているというのですか……?」
 ユリアの呆れた声も、彼は意に介さなかった。
「何、只の娯楽ですよ。たまにはこういう楽しみも有っていいでしょう。どうですか、ユリア様も一口……」
「ライナス様……!」
 ライナスを咎めたのは、ユリアの後ろに控えていたダーナだった。
 神に仕える者に対し、流石に不謹慎だったとライナスが詫びる。
「さて……ではそろそろ参る事に致しましょう。先ずはこのクリユスの戦いぶりをご覧下さい、ライナス殿」
「ああ、じっくり見せて貰おうか」
 クリユスは剣を携えると、ゆっくりと試合場へ歩んで行った。
 場内は今や最高潮の盛り上がりをみせいていた。

「臆さず来たか、その度胸だけは誉めてやろう……!」
 メルヴィンは自分を誇示するかのように、高らかに叫ぶ。それはどこか演技がかっているように見えた。
「いや……これは参りましたね。このクリユス、得意とする所は弓なのですが……ご存じかと思いますが、所属も弓騎馬隊に属しておりまして……」
「何と、戦う前から負けた時の言い訳か……!」
 情けない奴だと、メルヴィンは笑った。
「剣で評価されるのは不本意では無いのですよ。メルヴィン殿には、是非とも手加減して頂きたいものです」
「弓が尽きた時には剣も振るうのであろう、剣が使えぬのでは話にならんぞ! この俺に敵わぬまでも、少しは骨のある戦いを見せてみよ!」
「……最善は尽くさせて頂きます」
 クリユスは剣を構えた。

「何を……言っているんだ、クリユスは……?」
 後方で二人の様子を見ていたユリアは、思わず自分の耳を疑った。
 先程からクリユスが並べるのは弱気な言葉ばかりだ。とてもあの自信家のクリユスから出る言葉とは思えない。
 相手を油断させようというのか? それとも―――。
 二人の剣が、合わさった。戦いの開始である。
 その合図を皮切りに、剣が何度も交じり合い、弾かれた。
 果敢に攻めるメルヴィンに対し、クリユスの剣が明らかに押されている。メルヴィンの繰り出す剣をやっとかわしている、といった感じだった。
 じりじりと後退して行くクリユスは、今や柵の傍まで追い詰められている。
「どうした、守るばかりでは勝てぬぞ!」
 高らかにメルヴィンは吠える。それは勝利を確信した、自信に満ちた声だった。
「クリユス……!」
 居ても立ってもいられず、ユリアは客席を飛び出すと、試合場を囲む柵の所まで出て行った。
 ライナスに危険だと止められたが、ただじっとしている事など出来なかった。

 クリユスはメルヴィンから一旦離れ、間合いを測る。
「クリユス!」
 ユリアは柵越しに再び彼の名を叫んだ。ただこうして見守る事しか出来ないというのは、なんと歯痒い事なのだろう。
 その声が彼の耳に聞こえているのかいないのか、クリユスは少し俯いたままじっと動かずにいる。覇気をみなぎらせるメルヴィンに対し、その姿はあまりに弱々しげに見えた。
 こんなクリユスの姿など見ていられないと、ユリアが試合から目を逸らしそうになったその時、彼が小さく呟いた。
 恐らくその言葉は、彼の一番近くに居たユリアにしか聞こえなかっただろう。
「……………相手の力量も測れぬ愚か者が………」
 俯くその顔は、笑っていた。












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