112: ケヴェル神の弟子





 ユリアがティヴァナへと発ってからひと月の間に、フィードニアでも色々と動きがあった。
 一つは王都城下街の南地区にある、一軒の娼館をアレクが摘発したことである。
 その娼館の主がトルバと繋がっていることを突き止めたアレクが、警備兵と共に彼を捕縛。それをきっかけに、街にちらばる数名の密偵の存在も発覚し、皆捕えられることになった。
 それにより明るみになった事実の中で特に皆を驚かせたのは、娼館の主にしろ トルバ暗殺部隊長であるベクトにしろ、すでに六、七年程も前からフィードニアへ潜入し暮らし始めていたという事実である。 それ程に前から、トルバは各国へ密偵を送り込み、着々とこの東大陸全土の地を狙っていたということなのだ。
 だがその事実を知っても、アレクにとっては今さら驚くことでもなかった。九年も前からユーグはハーディロン家へ潜り込んでいたのだ、きっと計画はもっと早くから始まっていたに違いないだろう。それが今になってようやく表に出たというだけのことなのだ。

 そしてもう一つは、ハロルドが国王軍副総指揮官の座に正式に着任したことである。
 ブノワ、フリーデルといった軍の実力者達が強く押していたということもあるが、それでも旧体制を支持する尊貴派の反対を最終的に黙らせたのは、驚くべきことに普段こういったことには一切口を挟むことをしなかったジェドだった。
 そもそも、元々他国、しかも敗国の軍人だったハロルドが国王軍の副総指揮官に着任するというのは、尊貴派でなくとも受け入れがたいものである。 空席となっている副総指揮官の座に誰を据えるのか、軍務会議の議論は一向に収束をみせず、結論はまた後日に持越しになろうとしていた。その時、ジェドが皆を見渡しながらこう一喝したのだ。
「ハロルドよりも己の方が副総指揮官の座に適任だと思う者は、今すぐ名乗り出ろ。そいつを副総指揮官に任命してやる。ただし名乗り出たからにはライナス位の働きをしてみせねば許れぬと思え。誰もないのであればハロルドに任せることとする。今後一切、不満を口にするな。―――さあ、どうだ」
 無論のこと、名乗り出るものなど誰一人としていなかったのである。

 何の気まぐれか分からないが、この鶴の一声ですんなりとハロルドが副総指揮官に着任することとなった。
 そしてそれにより空席となった騎馬隊大隊長の座については、当初ライナスと同等の剣の腕を持つラオを押す声が強かったが、当人が固辞したということと、ジェド直属部隊を担えるのは彼しかいないということもあり却下された。
 次に名が挙がったのは、第五騎馬中隊長のフリーデルだが、未だ増え続けている騎馬大隊全てを担うには荷が重すぎると思われ、最終的には現在ひと括りで大隊を成している騎馬隊と弓騎馬隊を分け、騎馬大隊長にフリーデルが、弓騎馬大隊長には帰国次第クリユスが着任することとなったのである。







 アレクはその日、暇を持て余していた。
 先日立てた手柄により、昇給と三日間の休みを貰ったのだったが、かといって特にやることもない。娼館へしけこもうかとも思ったが、マリーがいない今、何となくそんな気分にもなれなかった。こんな時、ロランがいればあちこち連れまわすものをと、死んでしまった友を恨めしくさえ思ってしまう。
 仕方がない、馬でも駆けさせるかと思い、アレクは馬を王都の外へと連れ出した。
 宛てもなく適当に馬を駆けさせていると、ふと遠くの方に赤毛の馬と、それに遅れて着いていく一頭の栗色の馬が走っているのが目に入った。
 ああ、そうだ。とアレクは思う。今自分がやるべきことは、これしかないじゃないか。
 彼は慌てて馬首の向きを変えると、赤毛の馬が向かって行った先へと馬を走らせる。そして一刻ほど探し回ったところでやっと、小高い丘の上で休んでいる二頭の馬の姿を見つけ出した。
「ジェド殿……!」
「お、なんだ、アレクじゃないか。よくここが分かったなあ」
 答えたのは、栗色の馬の方に乗っていたラオである。当のジェドはこちらにちらりと目を寄越しただけで、関心もなさそうに再び視線を遠くへ向けた。
 アレクは馬から飛び降りると、ジェドの前に膝をつき頭を深々と下げた。
「ジェド殿、お願いします。俺に剣を教えて下さい……!」
「――――はあ?」
 素っ頓狂な声を出したのも、これまたラオだった。
「おいおい、突然何を言い出すかと思ったら、この人に剣を習いたいって? 無理だな、この人がそんな面倒見のいい男じゃないってこと位、お前も分かってるだろ」
 子供をあやすかのように、わしわしと頭を撫で回してくるラオの太い腕を払いのけ、アレクは続けた。
「お願いします、俺はどうしても強くなりたいんです。強くなって、この手でユーグを倒さなくちゃならないんです!」
「ならばお前の直属の上官に教えて貰え。今でさえ一人うろちょろとくっついてくる男が煩いというのに、これ以上そんな奴が増えてたまるか」
 頭を下げ続けるアレクなど見ようともせず、ジェドはそう冷たく言い放つ。
「それじゃあ今と変わらないじゃないですか。今のままの訓練では駄目なんです、今の俺じゃあユーグを倒すことなんて出来ない。ジェド殿のよう圧倒的な強さを、少しでもいいから手に入れたいんです。お願いします……!」
 更に深く頭を下げるアレクの肩を、ラオがぽんぽんと叩いた。
「分かった、そういう事ならこの俺がお前に剣を教えてやる、それでいいだろ」
 ごつい身体に似合わず、人の良さそうな目をラオが向けて来た。しかしアレクは首を横に振る。
「いえ、いいです」
 きっぱりとそう言い切ったアレクに、ラオは顔を固まらせた。
「……なんだと?」
「言ったでしょ、圧倒的な強さを手に入れたいって。そりゃあラオ殿も凄く強いですけど、驚異的に強くなろうと思ったら、驚異的な強さを持つ人を師にしなくちゃあ」
「な……」
 ぬけぬけと言うアレクに、目の前の男は絶句したように口をぱくぱくと動かした。そしておもむろにアレクの肩に手を置くと、息を深く吐き出した。
「――――まあ、気持ちは分かる。お前も色々あって辛い立場だ、早くユーグと決着を付けたいと焦る気持ちもあるんだろう。だがなあ」
 肩に置かれた手に、ぐっと力が籠る。
「ジェド殿と剣を合わせたいと、この俺がそうやって何度頼んだと思うんだ? この人の直属部隊となって早一年近く、毎日のように言い続けて来たが、未だ剣を合わせて貰ったことはない。それを昨日今日頼んできた奴に、すんなりジェド殿の手ほどきを受けられてたまるかよ。驚異的な強さを持つ人を師にしたいだと? そんなことはこの俺に一度でも勝ってからいいやがれ、この馬鹿野郎!」
 ラオの重い拳ががつんとアレクの頭に落ちた。
「いってえ、何するんですか!」
 未だ固く握られた拳を警戒して、両腕で頭をガードしながらもアレクは口を尖らせる。
 そりゃあちょっと言い過ぎたとは思ったけど、けど実際そうなんだから仕方が無いじゃないか。
 強くなろうと思ったら、師として一番強い者を選ぶのは当然のことだ。ラオだとてそう思うからジェドの直属部隊長になったのだろうに、自分が未だ相手にされていないからといって、他の者が教えを乞おうとするのを邪魔するというのはどういう了見だ。
 そう思いはしたものの、再び殴られるのも嫌なので敢えて口にはしなかった。
「だいたいお前は普段の訓練でさえ隙あらばさぼりやがるくせに、それで強くなりたいなんてよく言えたもんだぜ」
「最近はサボってませんよ」
 どうだかな、と疑いの目を向けてくるラオに心の中で舌を出し、アレクは再びジェドに向き直る。
「ジェド殿、どうしても駄目ですか? ユーグを倒したいっていう動機は私怨かもしれませんが、俺が強くなったら軍にも貢献出来ると思うんですよね。そうしたら連合国との戦いも、少しは早く決着がつくかもしれません。だったらこれは個人的な願いってだけじゃなくて、国王軍にとっても必要なことだと思うんですけど」
「……ほう」
 説得しようと必死に御託を並び立てているアレクの方に、やっとジェドがちらりと視線を寄越したかと思うと、彼は鼻で笑った。
「お前一人が強くなった位で連合国との戦いが早く終わると、お前は本当に思っているのか」
「そりゃ、弱い奴が大勢いるより強い奴が一人でも増える方が、戦いに有利でしょう」
「では試してみるか」
「え?」
 ぽかんとするアレクを前に、ジェドはにやりと笑う。
「お前に剣を教えてやると言っているのだ。それだけ豪語した以上は、次の戦いで武勲を立ててみせろよ」
「えっ、ほ、本当ですか? 本当に俺に剣を教えてくれるんですか? わあ、やったあ、そうこなくっちゃ!」
 ぱちんと指を鳴らすアレクの横で、ラオが火山の噴火のように憤怒した。
「ちょっちょっと待って下さい。冗談じゃない、何でこんな奴にあんたが剣を教えなきゃいかんのだ! だったらこの俺が先でしょうが!」
「まあまあ、ラオ殿よりこの俺の方が見込みがあるってことを、ジェド殿が見抜いただけのことじゃないですか。嫉妬はみっともないぜ」
 今度はアレクがラオの肩をぽんぽんと叩きながら言う。
「なんだと、この……」
 掴みかかろうとするラオの手を、アレクはするりとかわしてみせる。素早さだけは定評のあるアレクだった。
「おい、遊んでいないで付いて来い」
 いつの間にか馬に跨っていたジェドが、そんな二人を冷ややかに見下ろし、そのまま馬を走らせた。
「あっ待って下さい」アレクも慌てて馬に飛び乗ると、先程まで横に立っていた筈のラオは既に馬を走らせている。ジェドの気まぐれな行動には慣れているのだろう。
 負けてたまるかと、急いでアレクは馬を走らせる。
 
 自分で頼み込んでおいてなんだが、本当にジェドが剣を教えてくれることになるとは思わなかった。今まで彼の剣に心酔するものが彼に教えを請うことは多かったようだが、一度としてそれを受けた事など無い男なのだ。
 今回どんな気まぐれを起こしてアレクに剣を教える気になったのかは分からないが、己を鍛える絶好の機会を手に入れたのだ。軍神とまで称えられるジェドの剣を、何としても体得してみせよう。
 この決意から一刻の後には、ケヴェル神なんぞに弟子入りを願い出た事を彼は深く後悔することになるのだが、今はただ、ジェドの背中を追いかけ夢中で駆けていた。












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