11: 舞踏会3
ユリアは一人、バルコニーへと出た。 夜の湿気を含んだ冷たい空気が、肌に心地良い。 壁一枚隔てただけで、広間の喧噪は何故か遠く離れたもののように聞こえた。 ――――このまま、何処かへ行ってしまいたい。 空で瞬く無数の星を見ていたら、ふとそんな思いに捉われた。 (どうかしている……。そんな事、出来る筈が無いというのに) 自分には、この国でフィルラーンとして存在する以外に、何処にも行き場は無いのだ。 そう、かつて母であったあの優しい人とも、もう二度と会う事は許されていないのだから。 ユリアの生まれた家は、いわゆる没落貴族であった。 貴族としての名だけは残っているものの、ユリアが生まれた時には既に、広大な土地や屋敷は売り払われた後だった。 母は病弱で、一日の殆どをベットの上で過ごしていた。 その頃の事はあまり覚えていないが、母の儚く優しい笑顔だけは覚えている。 そして次に記憶にあるのは、叔父の誇らしげな顔。 叔父はあの日、ユリアの頭を撫でながらこう言ったのだ。『お前のお陰で、お前の母は病の治療を受ける事が出来るのだよ』と。 当時のユリアには意味は良く解らなかったが、兎に角褒められた事と、母の病を治す事が出来るという言葉が嬉しくて堪らなかった。 そう、二度と父母に会えなくなるなどと、思いもせずに。 後で知った事だが、フィルラーンを生んだ家は、国から厚く待遇されるらしかった。 ユリアがラーネスへ向かう事で、病を治す為の金も無い程貧しかった両親は、治療費とその後の安定した生活を保障されたのだ。 その引き換えに、その子供は神の子となり、国のものとなる。 ユリアはフィードニアの国境を越えた時から、父母の娘では無くなったのだった。 「こんな所にいらっしゃったのですね。探しましたよ、ユリア様」 振り返ると、ワイングラスを二つ手にしたクリユスが、そこに立っていた。 「―――なんだ。情報収集とやらは終わったのか」 「おや…焼いてくれているのですか? そうだったら嬉しいのですけどね」 クリユスは持って来たグラスを、バルコニーの傍らに据えられていた、小さなテーブルの上に置いた。 「たまには酒でも…と思ったのですが、既に酔っておられるようだ」 「私は酔ってなど……」 「頬が少し赤くなっておいでですよ。まあ、貴女の上気した顔というのも、 「よせ……私を他の女と同じように口説くな」 「同じなどと。 このクリユス、貴女に忠誠を尽くすと王の御前で誓いましたものを」 「クリユス……!」 「―――――以前のように、笑わなくなりましたね。ユリア様」 ふと、クリユスは真面目な表情になった。 「な……何を急に……。 状況が状況なのだ、笑っていられる訳も無いだろう。それにフィルラーンの仕事というのは、見た目のように華やかな仕事という訳でも……」 「―――――ユリア」 どきり、とユリアの心臓が跳ね上がった。 クリユスに敬称無しで呼ばれたのは、どれ程ぶりの事だろう。 「ユリア。この国に居る事が辛いのなら―――その所為で、お前が笑えないというのなら、俺とこの国を出ないか」 菫色の瞳が、ユリアを真っ直ぐに捉えた。 その瞳から目を逸らす事が出来ず、ユリアは動揺した。 「何を……急に……。ば…馬鹿な事を」 「馬鹿な事か。この国は確かにお前の故郷ではあるが、それも五歳までの事。ラーネスで過ごした十年間の方が…この俺達と共に過ごした 「それは―――そうだが……」 ――――このまま、何処かへ行ってしまいたい。そう先程考えてしまった想いを、クリユスに見透かされたような気がして、ユリアは俯いた。 「だが、ここから逃げてどうする。どこへも行き場など無いではないか」 「どこへでも、好きな所へ行けるさ。 フィルラーンを望んでいる国など幾らでもある。 このハイルド大陸東方の地だけではない、西でも北でも、お前が望むままに連れて行ってやろう」 クリユスはその長く綺麗な指で、ユリアの頬に触れた。その手の暖かさに、ユリアは泣きそうになった。 どこへでも、好きな所へ――――。 なんて甘い言葉なのだろうか。だが―――。 「だ……駄目だ……。私がこの国のフィルラーンで居る事で、母は病の治療を受ける事が出来たのだ。………それに……私は、ナシス様を尊敬している。あの方のお傍で、私は自分を高めたいと…あの方に生涯お仕えしたいと、私は思っているのだ。 ……それに………」 それに、それに、それに。 「そう―――この国を変えると、私は決めたのだ」 だから、今自分が逃げるわけにはいかないではないか。 クリユスは、もう一度ユリアの瞳を覗き込んだ。 「………それがお前の意思なのだな? それでいいんだな、ユリア」 「ああ…そうだ」 クリユスはユリアの頬から手を離す。 「俺はお前を、実の妹のように愛してきた。今も、これからもだ。 お前が望むなら何でもしてやろう。この俺が、生涯お前を守り抜いてみせる。―――――それだけは、忘れるな」 「クリユス……」 クリユスはユリアの金の長い髪を手に取ると、そこへ口付けた。 「ユリア様。夜風は体に良くありません、あまり長居はされませぬように……。 私は御婦人と約束がありますので、この辺で失礼致しますよ」 クリユスは片目を瞑ってみせると、にこりと笑った。 それはラオの頭を抱えさせる、いつものクリユスだった。 城下町では、灯りがちらちらと燃えている。 あのひとつひとつの灯りの元で、人々が生を営んでいるのだ。 クリユスと共に行けば、あの灯りの一つの中に入る事が、或いは出来たのかも知れない。 心に ――――何故こんなにも、私は心が弱いのだろう。願っても虚しい事を願うなど、愚かだ。 ユリアはクリユスが置いて行ったワインを手に取ると、それを無理やり飲み込んだ。 ――――迷うな、動揺など、するな。 今は感傷に浸っている時では無いのだ。私が、私の目的を遂げるまで 例えそれが、あの灯りと自分との距離のように、果てしなく遠い事なのだとしても。 「夜の街は、海に似ているな……」 ユリアは一人呟くと、街の灯りに背を向けた。 「闇の深さに、飲み込まれそうになる………」 ユリアは全ての思いを飲む込むかのように、ワインを飲み干した。 * ――――目が、回る。 ユリアは城とフィルラーンの塔を繋ぐ渡り廊下で、しゃがみこんでいた。 先程まではまだ普通に歩けていたというのに、皆が談笑する広間を後にしたとたん、眩暈が襲ってきた。 飲めない酒を煽り、酔い過ぎたのだ。 体がふわふわと宙に浮いているような感覚。 かと思えば、逆に地面に引っ張られているような体の重さ。 酒というものを、皆が楽しそうに飲んでいる事が全く信じられない。不快でしか無いではないか。 このままでは自力で自室へ辿り着けるとも思えなかった。 だが誰かに助けを呼ぼうとも、この廊下はフィルラーンの塔の関係者しか使わない廊下である。 こんな所でこんな事になるとは、と思い、だがこんな場所で良かったとも思う。 フィルラーンであるこの自分の、こんな失態を誰かに見られてしまう事は、余りに恥ずかしかった。 ダーナが自分を探しに来てくれるのを待とう、とユリアは思った。 もう一歩も歩けない。それどころか、余りの体の重さに、もういっそここで寝てしまいたいとさえ思えた。 ああ、そうだ。もうここで寝てしまおう。ダーナならこんな私の失態も、笑って済ませてくれるだろうから。 そう思い、ユリアが意識を手放そうとした、その時。 「――――おい、どうしたユリア? 大丈夫か」 誰かの声がした。 「……酔っているのか? ……呆れるな、これではフィルラーンとしての権威もあったものでは無いぞ」 その声の主は、咎めるように言う。 ―――ああ、五月蠅い、放っておいてくれ。 ユリアはそう言いたかったが、それは声にならず、呻き声にしかならなかった。 「…………喋れん程酔っているのか、しょうがないな……」 視界が回る。誰かに抱き上げられたような気もするが、そもそも視界がぐるぐると回って定まっていないので、本当の所は分からなかった。 ゆらゆらと体が揺れている。 何故だか、妙に居心地がいい、とユリアは思った。 暫くして、ベットの上らしき場所に寝かせられた。シーツの感触がする。 やはり自分は運ばれたのだ。 眠る事の出来る場所に落ち着き、ユリアは安堵した。 「………寝ているのか? ユリア」 ユリアはもう返事をしようと思わなかった。 ―――そうだ、私はもう寝るのだ。だから今度こそ、このまま放っておいてくれ。 だが声の主は部屋から出て行く気配をみせない。 「………お前のそんな無防備な顔を見るのは久しぶりだな。そうしていると、昔と何も変わらない」 ベットの脇に誰かが座った。キシリ、とベットが音をたてた。 その人物は、ユリアの頭を優しく撫でる。 「全く……男の前で、そんな無防備になるものでは無いぞ」 優しい、声。 何かが、ユリアの中で込み上げた。 その声は、優しく囁く。 「俺の小さなユリア……ずっと、お前に会いたかった」 ユリアの額に、唇が触れる感触がした。 貴方を、私は知っている。 ――――目を覚まさなくては。 ユリアは痛烈に思った。 ああ――――そうだ。 私は貴方を知っている。 私の方こそ、貴方にずっと会いたかったのだ。 早く、早く、早く、目を開いて。 ずっとずっと、ただ私は貴方に会いたかった。 そして以前と変わらぬ笑顔で、私の名を呼んで欲しかった。 ああ、早く目を開けて。この手を伸ばして。 だが体は鉛のように重く、指一本動いてはくれない。 ここで彼を見失ったら、もう二度と出会えない気がした。 温かい手が、ユリアの頬に触れ、そして離れた。 ――――待って……! ユリアは心の中で叫ぶ。 キシリ、と再度ベットが音を立た。ユリアの横に座っていた存在が、ユリアから離れて行く。 ――――待って、お願い。待って……! 声にならない。 何故、こんな時に、私の体は動かないのだろう。 足音が遠ざかっていた。 部屋から、出て行ってしまう。 ああ、やっと貴方に会えたというのに……!! ぐるぐると意識が回る。何もかもが。 足音が止まり、ぽつりと呟く声が意識の外で聞こえた。 「………ユリア、俺をもっと憎め。―――――恐怖の眼を向けられるより、憎しみの眼差しの方が、ずっとましだ」 ユリアの意識は、完全に途切れた。 |
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