104: ティヴァナへ4 男は口元に笑みを浮かべているというのに、その顔からは禍々しさ以外に何も感じ取る事は出来なかった。 「だ……誰…っ」 ユリアが思わずそう口にすると、男は僅かに顔を顰める。 「酷いなぁ、これでもフィードニア国王軍の小隊長だったというのに。……まあ、フィルラーンの貴女とは直接の面識を持ってはいなかったから、仕方が無いかな」 「フィードニア国王軍の…小隊長……」 では、味方なのか。いや、しかしこの禍々しさは……。 ユリアがそう 「いけません、ユリア様。この男がフィードニア国王軍に潜り込んでいた、トルバの密偵なのです」 「密偵」 フィードニア国王軍内に内通者がいると兵士達の間で噂になっていたのは知っていたが、まさか本当に潜入していたとは。しかもその人物が、小隊長職にまで就いていたというのか。 それはユリアにとって、初めて聞かされた事実だった。 「貴様、ユーグ! 我らがこの船に乗っている事を、どうやって知った!」 睨み付けるクリユスに、ユーグと呼ばれた男は肩を竦める。 「知っていた訳じゃないさ。怪しい港の目星を付けて、あとは通る船を片っぱしから襲っただけだ。五艘目で見つけるなんて、運が良いなぁ」 けらけらとひとしきり笑った後、ユーグは船尾楼から身軽に飛びおりた。 「こっちのことより、そっちは何でフィルラーンの命を我々が狙ってるって分かったのさ。もしかして、歯形以外にロランが何か残してたのかな?」 「黙れ、ユーグ」 クリユスの顔色がさっと変わった。 しかしユリアにはユーグの言葉の意味が分からない。ロランが、何だって? 「敵襲だ! バルドゥル、ユリア様をお守りしろ!」 クリユスが声を張り上げ、船内からバルドゥルと数人の兵士達が甲板へ上がって来た。 それと同時に、クリユスは剣を構えたまま、ユーグに向かって突っ込んで行く。剣を己の腰から未だ抜いてさえいないユーグは、しかし数多繰り出されるクリユスの剣を、笑顔を崩さぬまま、ひょいひょいと軽く避けていく。 「な……クリユスの剣が、軽くいなされるなんて……!」 信じられない光景だった。弓の方が得意なのだとはいえ、クリユスの剣は決して弱くなどないのだ。 「ユリア様、危険です、船内へお入り下さい」 バルドゥルが矢を弓の弦につがえながら、ユリアの前に出た。その顔にも緊迫した色が滲んでいる。 「お早く!」 「わ、分かった」 バルドゥルはユーグへ向け弓を放つ。数人の兵士達も、剣をその手に暗殺者の元へ駆けていった。 しかしユーグはクリユスの剣を避け、バルドゥルの弓矢を剣の鞘で払いのけ、そして襲いかかる兵士達の肩に飛び乗り、くるりと身を躍らせると、船内へ戻ろうとしていたユリアの目の前に降り立った。 「ユリア様……!」 叫ぶクリユスを尻目に、ユーグはにい、と口の端を吊り上げる。 「なあ、教えてくれよ。ロランの死体は何をあんたに伝えたんだい?」 「え………」 「貴様ぁ!」 クリユスが兵士の一人から弓を受け取り、ユーグに向け放つ。 「おっと」 後ろに飛び跳ねた先に、バルドゥルが更に弓を放ったが、男はそれも身軽にかわした。 とたん、兵士二人がその場に倒れる。弓を避けながら放った小剣が、二人の兵士の咽喉を正確に貫いていた。 その光景を、ユリアは遠いもののように眺めていた。今彼女の頭の中には、それらの出来ごとが何も入っては来なかった。 『ロランの死体は』 ―――――何? 何を言っている? この男は、何を。 「あ、これ秘密にしてたんだっけ? 墓に名前も彫ってもらえないんじゃ、ロランも可哀想だなぁ」 「黙れ、貴様がロランを……」 そこまで叫び、はっとしたようにクリユスはユリアを見ると、唇を噛みしめた。 「く……とにかく、貴様は許さん……!」 クリユスは憎悪を目に弓を引き絞る。 立て続けに、正確に放たれる弓矢に、流石にユーグは剣を手にした。 「ユリア様、中へ」 再三バルドゥルが促したが、ユリアの足からがくりと力が抜けた。 その身体を、バルドゥルが慌てて受け止める。 「バルドゥル……ロランは? 最近、ロランの姿を見ていない。連合国の様子を窺う為に、グイザードとの国境まで行っているとクリユスが言っていたが、本当なのか? それにしては、帰りが遅くはないか?」 支えられた腕にしがみ付きながらユリアが問うと、バルドゥルは困ったように目を泳がせた。 「それは、また後でご説明致します。今は、ともかく中へ」 「バルドゥル、ロランは……!」 それ以上続ける事は出来なかった。口にしたら、本当の事になってしまいそうで、恐ろしかった。 震えるユリアの前で、クリユスと剣を合わせていたユーグが、愉快そうに笑い声を上げる。 「はははっ、教えてやるよ。俺が殺したんだ、あいつが俺の事をちょろちょろ嗅ぎまわって五月蠅かったからさぁ」 「黙らないか!」 憤怒するクリユス、悔しそうに顔を歪めるバルドゥル。皆の様子がそれを事実だと、ユリアに告げていた。 「そんな……」 目の前が真っ暗になった。もはや立っていられなくなり、ユリアはその場に崩れ落ちる。 ロランの涙や、笑顔、怒った顔や困った顔、照れた顔に拗ねた顔。 様々なロランの顔が次々に頭に浮かんだ。 初めはそう、憎しみの顔だった。イアンの死で、彼は初めユリアに憎しみを向けたのだ。 だというのに、その後はずっと傍に仕えてくれた。守ってくれた。笑っていてくれた。 「どうして!」 もう二度と、誰も失いたくは無かったのに! その為に私はティヴァナへ行くのだというのに! 「どうして!」 何故一人無茶をした、何故こんな男に殺められる事になってしまったんだ、何故! 「ユリア様、貴女のお命が狙われている事を、ロランが知らせてくれたのです。奴が最後に、それを知らせてくれたのです。だから貴女は、こんな所で命を落としてはいけません!」 ユリアの両肩をがっしりと握り締め、バルドゥルがそう告げる。 「ロランが……」 最後まで、こんな私のことを案じてくれたのか。 こんな所で、死ねない。ああそうだ、生きて、ティヴァナへ行かなくては。 ユーグの笑い声が頭の中に響いた。 ジェドを憎いと思っていた。だが憎しみとは、あんなものではなかったのだ。 憎悪と言う感情を、ユリアは今、初めて知った。 まずいな。 ロランの死を知り、その場に崩れ落ちるユリアを横眼で見ながら、クリユスはかつて無い程の焦りを感じていた。 ユリアにとっては今、己の命の危機を危惧するよりも、突然知らされた悲報の衝撃の方が勝ってしまっているようだった。 こんな事なら、最初から告げておけばよかった。知れば深く心を痛める事が分かっていたから、知らずに済むのならばその方が良いと思ったのが、かえって仇となってしまった。 それがよりにもよって、こんな一番最悪な状況で知る事になってしまうとは。 しかもユーグがここまで剣の立つ男だとは、正直想定していなかった。国王軍に居た頃は、実力の半分も出していなかったに違い無い。 これ程に近距離から放たれた矢を、ユーグはいとも簡単に剣で弾き飛ばしていく。 ちょこまかと動き、その合間に、切りかかる兵士達を次々に倒していった。 「く……!」 矢が最後の一本になり、クリユスは弓を再び剣に持ち替える。 ユリアはまだ、その場から動かずにいる。 「バルドゥル、早くユリア様を中へ! いいから担いででも連れて行け!」 そうクリユスが怒鳴るのと同時に、ユリアはすっと立ち上がった。そして身を翻し、船内へ逃げ込もうとした。 だがそれより早く、ユーグが扉の前に立ちふさがる。 「おっと、駄目だよ。船室を探しまわるなんて、そんな面倒なこと御免だね。大人しくしてくれないと、遊びを止めて、今すぐあんたを殺しちゃうよ」 「な……あ、遊び?」 ユリアの顔が、さっと青褪めた。恐怖よりも、怒りがその目に宿っているのをクリユスは感じた。 「ユリア様、こちらへ!」 彼女を自分の背後へやって、バルドゥルと二人、ユーグに向かい合う。 そうだ、この男は遊んでいるのだ。 剣を合わせていて、ユーグの剣にはまったく手応えが感じられなかった。本気で戦っていないのだ。この船上にいる誰の命でさえも、いつでもその手に出来るという余裕が滲み出ている。 その上で、恐怖を煽ぎ遊んでいるのだ。 どうする? クリユスは自問自答する。 この船上でこの男に勝てる者は一人もいない。しかし何としてでも、何を犠牲にしても、ユリアだけは守らなければ。 クリユスはユーグに剣を向けたまま、目だけを動かし辺りを探った。そして、はっとする。 もしや、あれは――――。 「船を……船を左方の崖に近づけろ!」 舵手に向かい叫ぶクリユスに、バルドゥルが怪訝な顔をする。 「クリユス殿、あの切り立った崖では、近づいた所でよじ登ることなど出来ません。ましてやあの高さでは、飛び移ることも―――」 「分かっている!」 船は崖に向け進路を変えた。 ユーグが楽しそうな顔をする。 「へえ、何をやろうってんだい? けど何をしようと間に合わないよ、お前達は、もう死ぬんだ」 次の瞬間、ユーグがクリユスの懐に飛び込んできた。とっさに己の剣で、それを受け止める。重い、重い剣だった。この細そうな腕のどこに、こんな力があるのか。 だがこっちもなめて貰っては困るのだ。これでも国王軍弓騎馬隊中隊長、この人離れした強さを持つ男が相手だろうと、ほんの少しの間時間を稼ぐ事くらいなら、出来るのだ。 ぎん、とユーグの剣を薙ぎ払い、逆に攻撃を仕掛ける。軽くかわされたが構わない。更に剣を振るう。 もう少し、もう少しだ―――。 「へえ、少しはやるなあ、面白い」 ユーグが再び剣を繰りだす。さっきの剣より、更に早く重い。 「くう……!」 やっとの事で、弾き返した。既に肩で息をしている。 「面白いか。だが、お前のその薄ら笑いも、ここまでだ」 「何だってぇ?」 馬鹿にするように、ユーグが眉を吊り上げた。 その時、太陽の光りが一瞬、何かに遮られる。 上を見上げると、その“何か”は彼らの遥か頭上から降って来て、大きな音を立て、甲板へ降り立った。船がその衝撃で、ぐらぐらと激しく揺れた。 馬の 空から―――いや、正確には崖の上から降って来たものは、立派な体躯をした赤毛の馬と、そしてそれに跨る、一人の青年だった。 「―――――楽しそうな事をしているじゃないか。俺も、混ぜてもらおうか」 深紅のマントをなびかせ、ジェドは腰に佩いた剣をすらりと引き抜いた。 |
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