101: ティヴァナへ1





 その部屋は常に薄暗い部屋ではあったが、トルバ国王軍総指揮官であったアイヴァンの死より、更に光りの差し込まぬ部屋となっていた。
 窓は板で打ち付け、厚いカーテンが開かれる事は無い。昼間だというのにこの部屋にある灯りと言えば、燭台の炎のみなのである。
「アイヴァンを暗殺した者を、まだ捕まえられんのか……!」
 ヒステリックに叫ぶトルバの宰相ハイラムに、老爺はゆっくりと頭を下げる。
「は……申し訳ございませぬ。何しろ暗殺者の姿を見た者が城の中に誰一人としておらず、唯一それらしき者を見たという靴屋は、死の神メトプスであったとしか申さぬ有様で、依然どこの手の者かさえも分からず、難航しております」
「姿を見た者が誰一人おらぬなど、そんな事はありえぬ! 警備兵は何をしておったのだ、皆揃って寝ていたのか!」
 アイヴァンが何者かに暗殺され、こともあろうにその首が処刑台の上に晒されていたあの事件以来、ハイラムはずっと暗殺者に怯えていた。次は己かもしれぬと、こうして部屋に閉じこもり、喚き散らす。
 暗殺者はトルバ国王軍の軍力を大きく削いだのと同時に、各国の連合を成したこの宰相と、他国の要人達の喉元に剣を突き付ける事に成功したのだ。守られた城にいようと、誰であろうと、いつでも殺す事が出来るのだと。
「なにが、“死の神”だ」
 ハイラムは掌で机を叩きつける。
「その愚かな靴屋が死の神などという世迷言を口にしたお陰で、それがどう外に漏れたのか他国に伝わり、『死の神が居る国とこのまま同盟を結んでいてよいのか』などと言い始める国が出てしまいおったのだ。全く下らぬ、そのような国をさっさと黙らせる為にも、早急にその暗殺者を捕まえよ!」
「は……」
 老爺は再び頭を下げる。
(死の神メトプス、か)
 メトプス神を思わせる男を、ベクトは一人知っていた。
 フィードニア国王軍総指揮官、ジェド。あの威圧感は、確かに死の神を連想させる。あの男ならば、堅固な王城の警備を掻い潜り、果ては国王軍兵舎の中まで忍び込む事も、可能なのかもしれない。
 いや寧ろそれが出来得る者など、あの男以外に誰一人として思い浮かべる事が出来ぬのだ。
「それともう一件、ティヴァナとフィードニアの同盟の件については、抜かり無いであろうな」
「はい。それに関しましては、使者を乗せた船を襲う手筈を既に取っております」
「そうか、ならばよい。いいな、何としても同盟を阻止するのだ。大国二つが手を結べば、我等の脅威になるのは明らかだ。何としても、それは避けねばならぬ」
 無論です、とベクトは頷く。
 だが老爺の頭の中を、あのフィードニアの兵士の姿が過ぎった。
 手筈は整えた、だがそれだけでは足りぬかもしれぬ……。
 船がフィードニアを出港し、領海を出てしまうまでに止めねば、その後は使者を乗せた船がどの航路を取るのか全く分からないのだ。もしそこで取り逃がせば、海の上で再び使者の船を襲うのは難しいであろう。
 念には念を入れ、無事に使者がティヴァナへ到着してしまった後の事も考えねばならぬやもしれぬ。
 老爺は暗い部屋に灯る燭台の炎を、じっと見詰めた。











 明日、同盟の使者としてティヴァナへ発つという日、久方ぶりにラオがクリユスに話しかけて来た。
「……本当に、お前もティヴァナへ行くのか?」
 ラオは眉間に皺を寄せ、複雑そうな表情をしている。
「本当だとも。このまま彼女一人がティヴァナへ行った所で、同盟が結ばれることは無い。しかしそう言った所で聞く人ではないからね」
「しかし……お前は、それでいいのか?」
 ラオは兵舎の廊下を見渡し、周りに人がいないことを確認する。
「今お前がユリアと共にティヴァナへ行けば、ユリアに……」
「それは仕方が無い事だ。いつかこういう日が来る事は分かっていた。確かに、もう少し先の予定ではあったけれどね」
 クリユスは肩を竦めると、口の端を僅かに吊り上げた。
「しかしこれは好機なのだよ、ラオ。ユリア様が自らティヴァナへ行くと言われた時には流石に驚いたが、だが私にとってそれは願っても無いことなのだ。ユリア様が同盟を締結させた立役者となられれば、戦女神としての名も上がる。もう彼女は只フィルラーンであるだけでは無くなるのだ」
 瞳を輝かせるクリユスに対し、ラオは尚も顔を顰める。
「しかし、そう上手く行くものか。お前の事をユリアが知ったら、あいつは苦しむだろう。同盟の話どころでは無くなるかもしれないぞ」
「それは……上手くやるさ」
 いつもの自信に満ちた顔が、この時ばかりは少し陰った。しかし直ぐに顔を上げると、ラオの肩をぽんと叩く。
「それより、ユリア様と共にダーナ嬢もティヴァナへ行くらしいが、お前も付いて来なくていいのか? どれだけの間離れ離れになるか分からんぞ」
「ば、馬鹿言え」
 ラオはでかい図体に似合わず、その顔を赤らめた。
「ティヴァナを裏切った俺が今更帰れる訳が無いではないか、お前とは違うんだ。それに俺はジェド殿の直属部隊長なのだ、あの人の傍から離れる訳にはいかん」
「そんな事を言っていると、また俺がダーナ嬢を利用するかもしれんぞ」
 意地悪く言うクリユスに、ラオは不愉快そうに口をひん曲げる。
「もう一度あんな事をしてみろ、お前の首をこの俺の手で撥ねてやる」
「おいおい、怖い事を言うな」
 クリユスは降参、とばかりに両手を軽く上げてみせる。
「―――――ダーナを、頼んだぞ」
 ラオの目を見返しながら、クリユスはしっかりと頷く。
「勿論だ、無事お前の元に返してみせるよ」
 ラオはふんと鼻を鳴らすと、「明日、見送りはしないぞ」とだけ言い残し、さっさと鍛錬場へ歩いて行った。


「クリユス殿」
 ラオの背中を見送った直後に、更に別の人物に話しかけられる。
「これは、ブノワ殿」
 軽く会釈をすると、これまたブノワも額に皺を寄せていた。
「再三問うた事ではあるが、再度聞きたい。本当に貴殿もティヴァナへ向かわれるのか」
「はい、勿論です。私はユリア様にお仕えする身ですからね。あの方が行かれるというのなら、私も共に行くまでです」
 にこやかに答えるクリユスに、ブノワは顔を顰める。
「冗談はよい。一体貴殿は何を考えているのか……ティヴァナを追われた身で国に戻り何とするのだ。捕らえられるだけではないか」
 それは至極当然の意見である。故に、クリユスは皆を説得する為の言い訳を口にする。
「そうですね。ですから、私はティヴァナへ入るつもりはありません。使者の船に便乗し、ティヴァナの隣国であるベスカへ密かに入り、その後トルバを探ってくるつもりです」
「なんと、そうなのか」
「はい、けれどこれは極力内密に願います。フィードニアに入り込んだ密偵が、ユーグだけとは限りませんので」
「うむ……そうだな。このことは他に誰が知っているのだ?」
「クルト王に許可は頂いております。他にはハロルド殿や、フリーデル殿にも」
 ブノワは幾分安堵した顔をしたが、しかしまだ納得行かぬ様子で首を捻る。
「しかし、何故貴殿がそこまでする必要があるのだ。探りを入れるのならば、諜報部隊の兵士に行かせればよいものを」
「傭兵時代に暫らくあの辺で働いていましたから、土地勘が私の方があるのです。それに、その時の伝手つてもね。ご心配なさらずとも、ティヴァナとの同盟が成り、連合国との戦いが激化する前には戻って来ますよ」
「それなら良いが……」
 ブノワが危惧する別の事も、クリユスには分かっていた。
 今、この時期にクリユスがティヴァナへ向かうという話が、兵士達の間でどう噂になるのかが問題なのだ。
 ティヴァナ出身のクリユスである。フィードニアの情報を手土産に罪を許してもらうつもりなのだとか、元々密偵だったのではないかとか、はたまた他国へ逃げるつもりなのだとか、色々と言い始める者は少なからず現れるだろう。
 だがハロルド、フリーデル、ブノワの三人に任せておけば、そういう口さがない者達を、きちんと抑えつけておいてくれるに違いなかった。
 軍の要になる人物は、既にクリユスの手中にあるのだ。

「それより、ブノワ殿はハロルド殿の件をお願い致します。副総指揮官の座が空のままでは、激化する連合国との戦いに今後勝利するのは難しいでしょう」
「うむ、分かっている」
 ブノワは頷くと、己の胸を拳で叩く。
「任せておれ、このわしが頭の固い古参連中共を説得してみせようぞ」
「お願いします」
 クリユスは深々と頭を下げながら、内心笑いそうになるのを何とか堪える。
 一年前はその『頭の固い古参連中』の最たる人間だったブノワが、よくも変わったものだ。
 フィードニア国王軍の古参連中の筆頭であり、歩兵隊大隊長であるブノワが動けば、ハロルドが副総指揮官に就くのもそう難しくはないだろう。
 ジェドを頭にし、ハロルドが軍を束ねる。ライナスを失った穴は、早急に埋めねばならなかった。そして、フィードニアは今以上に強く成らねばならぬのだ。
 そうでなければ、これから続く戦いに勝ち残ることは出来ないだろう。
「では、気を付けて行って参れ。必ず戻るのだぞ」
 ブノワが差し出した手を、クリユスは握り締めた。
「はい、必ず」
 今はフィードニアを属国とする訳にはいかない。そう―――――ユリアが、百万の民をかしずかせる光溢れるフィルラーンとなる、その日までは。













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