100: 誓い





 月の女神が深く支配するこの刻限、城内はたまに見張りの兵士がうろついている以外に人気は無い。
 灯りは廊下の壁に取り付けられた燭台が、点々と蝋燭の炎を照らすのみである。
 ベクトは気配を消し、暗闇から暗闇へと移動しながら王城の中を進む。灯りなどに頼らなくとも、既に城内の間取りは調べ尽くし、把握していた。
 本来ならばもう少し時機を窺い行動に出る予定であったが、ロドリグがフィードニアの手に落ちてしまった以上、もう「ユーグの祖父」としてフィードニアに留まる事は出来ぬのだ。
 捕縛の手は直ぐにでもこちらに向くに違いない、故に今宵が襲撃の最後の機宜きぎであるのだ。

 ふと、人の気配を感じベクトは闇に身体を潜ませる。
 王の寝室へ続く階段の前に、三人の兵士が立っていた。どうやら頭の中に叩き込んだ地図は、間違ってはいないようである。
 ベクトは短剣を三本取り出すと、迷わず兵士達に向け放つ。剣は的確に兵士達の急所を捕らえ、呻き声一つ上げる間もなく絶命した。
(さて、ここから先は未知の領域……)
 王城の中でも、流石に王家が居住する一帯までは調べる事が出来なかった。だがここまで侵入出来れば、もう王の喉へ剣を突き付けたも同じ事である。
 ベクトは音も無く階段を駆け上ると、長い豪奢な廊下を最奥に向かい進む。恐らくどこの王城も作りとして大きく違いは無いだろう、王の居室であると目星を付けた部屋の扉の中へ、老爺は身を滑らせた。
 瞬間、ベクトはぎくりと身体を制止させる。
 暗闇に静まるその部屋は王の居間らしく、机と、それを取り囲むソファが置かれている。そのソファに、どかりと座る人影が居たのだ。
「待ちかねたぞ、暗部の者よ」
 その人影から重厚な声が発せられた。
 ベクトは剣を抜くと、咄嗟に後ろに飛びずさる。
「――――誰だ、クルト王か……!」
 その問いに答えるように、その人影は手元の燭台に火を付けた。照らされたその人物はフィードニアの王では無かった。もっと若い、若過ぎさえする男だ。
 老爺はその男の顔を知っていた。ライナスと同じく、狙う首に入っていたもう一人の男である。
「フィードニア国王軍総指揮官、ジェドか……」
 剣を構えるベクトに対し、男は尚もソファに深く腰を掛けたままである。このまま容易に殺す事が出来そうだと思えてしまう程、隙だらけである。しかしその実爪の先ほども隙が無いのだ。
「何故わしが今日ここへ来ると分かったのだ」
 男から目を離さず、ベクトは問うた。
「さて、それに答える義理は無いな」
 男は飄々とそう答える。
 びりりと張り詰める空気を、老爺は感じた。今までついぞ感じた事の無い緊張感であった。額に一筋の汗が伝わる。
 剣も持たぬ、ただそこに座っているだけの男だというのに、ベクトはこの男には勝てぬと早々に理解した。
 既に今宵の暗殺は失敗に終わっているということだ。ならば、ここで無駄に足掻いた所で一切の理も無かろう。今は、引くのみ。
「フィードニアの英雄よ、また何れ会おうぞ」
 言うなり、ベクトは短剣を放つ。それは燭台の灯を消し、そしてそれと同時にその身を翻すと、窓を突き破り外へ飛び出した。


「――――獲物を目前としているというのに、ひと太刀も剣を交えず去ったか。トルバ暗殺部隊長とは、中々切れ者のようだな」
 奥の部屋からそう言いながらクルト王が姿を現す。
「五月蠅い蠅です、直ぐに切り捨ててしまえば良いものを……」
 詰まらなそうにそう言うジェドに、クルト王は薄く笑みを作る。
「蠅を一匹二匹叩き潰した所で、膿が消えはせぬ。放っておけばよい」
「は……」
 王が何を考えているのか分からぬが、興味も無い。そういう顔をジェドはした。
 その時、暗闇の中に扉を激しく叩く音が響く。
「クルト王、ご無事ですか……!」
 先程の暗殺者が窓を突き破った音を聞きつけたのだろう、警備兵がようやく駆け付けたのだ。
「俺は無事だ。暗殺者が侵入し、そして逃げ去った、まだ遠くへは逃げていない筈だ、探せ……!」
「は……!」
 探せと命じたものの、あの暗部の者を捕まえる事が出来るとは、王は思ってはいなかった。
 暗殺部隊だの、連合国だのがこそこそと策を弄しているが、今は好きにしていればいい、と王は思う。
「ジェド、もう下がってよいぞ。暗殺者も今宵はもう現れぬであろう」
「では、これで失礼させて頂く」
 立ちあがると、ジェドはさっさと部屋を出て行った。何故暗殺者をむざむざ逃がしたのかなど、聞きもしない。良きにつれ悪しきにつれ、何事にも無関心な男である。
 王は燭台に再び灯りを点す。
「誰もかれも、今は好きに足掻けばよい。最後に全てを喰らい尽くすのは、この俺なのだ……」
 割られた窓から風が吹き込む。その風は炎を揺らしたが、消し去りはしなかった。












「昨夜暗殺者が王城へ入り込み、王の命を狙ったらしいぞ。ジェド殿が撃退したそうだがな」
 アレクは牢の中に向かい、そう話しかける。
「そうですか。……で、それが何か? まさか私がそれを聞いて悔しがるとでも思われたのですか、アレク様?」
 牢の中の人物は、嘲るような目をアレクに向ける。
「王城に不審者が潜入したと初めに聞いた時、じーさんがお前を取り返しに来たのかと思ったんだ。だがじーさんは掴まったお前には目もくれず、王の暗殺へ向かっていた」
「だからそれが何だと言うのです」
 瞳に暗い影をやどしている。アレクが良く知るユーグは、決してこんな目でアレクを見上げることなどなかった。
「暗殺部隊長だか何だか知らないが、お前の実のじーさんなんだろ? だって顔がそっくりだもんな。なのにじーさんはお前の命より、王の暗殺を優先させた。―――――お前は、可哀想な奴だ」
「は……」
 くくく、とユーグは愉快そうに笑う。
「なんですか、それは。同情ですか? けれどご心配無く、確かにベクト様とは血の繋がりはありますが、ただそれだけです。我等の間に、そのような下らない感情など微塵もありはしないのですよ」
「下らない……」
 呟くアレクに、「そうです」とユーグは目を細める。
「貴方が今、この牢に何をしに来たのか当ててあげましょうか。貴方はロランさんを殺したのがこの私だと確信しているにも関わらず、それでも私に言い訳をして欲しいのです。暗殺部隊の命令にはどうしても逆らえなかった、貴方を裏切るのは本当は辛いのです、と」
「……………」
 図星だった。
 共に過ごした九年間を、アレクはどうしても疑う事が出来なかった。時に喧嘩し、時に笑い合い、いつもいつも傍に居た。それが全て嘘なんてこと、ある筈が無いじゃないか。
「命令されて、仕方無く裏切ったんだろう? 違うのか?」
 そうだと言って欲しかった。本当はロランを殺したくは無かったのだと。仕方が無かったのだと。例え、嘘でもいいから。
「それが下らないと言っているのです」
 ユーグは立ちあがると、鉄格子ごしににこりと笑う。いつも彼が見せる、人の良さそうな優しい笑顔だ。
「はは、いい加減にしてくれませんかね、アレク様。あんたのその甘ちゃんな所には、反吐がでちゃうよ」
「………な、に?」
「九年間、あんたに仕えているのは苦痛だったと言ってるんですよ、アレク様。この俺が子守りなんて冗談じゃない。あんたがこの俺を慕ってくるのが、滑稽で吐き気がする程気持ち悪かったよ」
「ユーグ」
 あはは、とユーグは楽しそうに笑う。その笑みが頭に貼りついて、彼の言葉を理解する事が出来なかった。
「はは。それそれ、その顔。信じてる人間に裏切られる奴の顔っていうのは、全く愉快でいいよなぁ」
「ユーグ、お前……」
 嘘だ。こんな奴、ユーグじゃない。俺の知ってるあのユーグは、こんな醜い男じゃない。
「ああ、そうだ。ついでにロランさんの遺体の、あの毛布の下がどうなっていたのか、教えてあげましょうか。無残な殺され方をした親友の遺体を目の前にした時の、あんたの苦悩の顔を折角見たかったのに、ハロルド殿が邪魔をして残念でしたよ」
「や、めろ。止めろ、ユーグ……!」
 アレクは思わず後ずさる。眩暈がし、吐き気がした。
「マリーという女性、そういえば貴方が通いつめていた女性でしたね。彼女の最後も楽しかったなぁ。許してくれと、泣き叫んでいましたよ」
「止めろって言ってるだろ……!」
 気付いたら、アレクは剣を抜いていた。
 何か見知らぬどす黒い塊が、アレクの前で蠢いている。そんな感覚に襲われ、アレクは言い知れぬ恐怖を感じた。
 許せない、こんな奴はユーグじゃない。ユーグの皮を被った、ただの狂人じゃないか。
「俺を殺したいですか? けれど残念、この鉄格子がある限り貴方の剣は俺を貫く事など出来ないのですよ」
「この……!」
 届かない剣先を嘲笑うかのように、奴は牢の奥へと引っ込んでしまう。
 この狂人を捕らえている筈の鉄格子が、まるで奴を守っているかのように感じられた。警備兵を呼び、今すぐこの鉄格子の鍵を開けさせ、そしてこの男を、ユーグと同じ顔をした醜悪で下衆びた男を切り捨ててしまいたい。
 そんな衝動がアレクの心の中に溢れたが、だが彼は必死でそれを押し留める。
「……残念だが、お前の挑発には乗らないぞ。俺がここでお前を殺さなくても、いずれお前は処刑されるんだからな」
 アレクは剣を下ろすと、鞘に納める。
「これは、アレク様……。激情に呑み込まれず、冷静なご判断です。何と大人になられたことか」
 優しい声がアレクを包む。何も以前と変わる事の無いユーグが目の前にいた。
「お前は……まるで魔の者だな」
 小動物をいたぶる獣のように、こうして動揺するアレクを楽しんでいるのだということが、彼にも分かった。
「九年間、お前の中に居る魔に気付かなかった。それは、俺の罪だ」
 アレクは牢に背を向ける。牢の中から笑い声がするのを、彼はじっと黙って聞いていた。







 数日後、もう二度と足を踏み入れまいと思っていた牢へ、しかしアレクは再び行く事になった。
「どういうことだ」
 アレクの問いに、警備兵が「分かりません」と首を横に振る。
 数人の警備兵が床に倒れている。ユーグが居た筈の牢の中は、今やもぬけの殻になっていた。
「脱獄したのか」
 同じく駆け付けたクリユスが、顔を顰める。
「こんな、大事な時に……」
 ユリアがティヴァナへと出立する日が、既に十日後に近づいていた。その前に何としても探し出せと、警備兵に指示を出すクリユスを尻目に、ふとアレクは牢の鉄格子に括りつけられている、あるものに眼を落した。
 薄汚れてはいたが、それはアレクにとって見覚えのあるものだった。
 ピンクのリボン。かつてアレクがマリーにあげたものである。
「ユーグ……」
 手が震えた。この期に及んで、奴はアレクの心を嘲笑っているのだ。
 かつての護衛役であり、目付役であり、側近であり部下であり、そして兄だったユーグ。
 お前と言う獣を、このフィードニア国王軍へ入れてしまったのは、この俺なのだ。

 アレクはリボンを鉄格子から外すと、掌でぎゅっと握りしめる。
 何が「挑発には乗らない」だ、「俺がここでお前を殺さなくても、いずれお前は処刑される」だ。
 あいつの不始末は、かつて主だったこの俺が付けねばならなかったというのに。
「クリユス殿、ユーグはこの俺が必ず捕まえてみせます」
「何を言ってる。ロランでさえ歯が立たなかった男なんだぞ、お前一人で敵う相手ではない」
「それでも、この俺が始末を付けねばならないのです。この俺が」
 例え何年かかろうとも、あいつよりもずっと強くなって、この俺自身の手で必ず奴を倒してみせる。
 もう誰一人として、俺の大切な人をお前に殺させはしない。それがこの俺の、お前に対するけじめなのだ。
 ライナスにマリー、そしてロランの顔を思い浮かべながら、アレクは心の中でそう固く誓った。














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