―――湖畔の嵐―――





 夕刻、ボルテンへ向け進行しているフィードニア軍は、その歩みを止め夜営の準備に取り掛かっていた。
 天幕を張る者や、夕食の煮炊きをする者、皆慌ただしく動いているというのに、ユリア一人何もする事が無い。せめて兵士達に労いの言葉だけでもかけてみようと思うのだが、彼女が声を掛ける度に、兵士達は作業を中断してその場に低頭してしまう。寧ろ皆にとって邪魔にしかならぬようで、それも断念した。
 こんな時、ユリアはひっそりと溜息を吐く。ああ、やはり自分は役立たずなのだと。
「ダーナは……」
 ユリアは己の世話役である少女の姿を探したが、彼女もまた、忙しなく兵士達の面倒をみて回っており、声を掛けるのが何となくはばかられた。
 ここは大人しく自分の天幕に戻り、じっとしているしかないのかと諦めた時、ふと水分を含んだ風が吹いていることに、ユリアは気付いた。
(近くに、川か湖があるのか……)
 今日は少し暑い日だった。
 勝手にこの陣営から抜け出してはいけないという理性が働きはしたが、どうせ皆忙しいのだ、少しぐらい姿が無くとも、誰も気が付かないに違いない。
 それでなくともラーネスでフィルラーンの修行をしていた頃は、しょっちゅう抜け出しては近くの街へ出歩いていたユリアである。じっとしている事は性に合わず、水辺を探索しに行きたいという誘惑に、彼女はあっさりと負けたのだった。

 陣営から四百ヘルド余り(約五百メートル)風上へ歩いた所に、湖はあった。
(綺麗な水……)
 少し深くなった場所でさえも底が見える程、その湖の水は清く透き通っていた。
 手を差し入れてみると、冷やりと心地良い。森の木々に囲まれたこの場所は、静かで、清浄だった。
 ユリアは辺りに誰もいないのを確認すると、靴を脱ぎ、ドレスの裾を捲り上げ、そっと足を湖に入れる。
「ふふ、気持ちが良いな」
 後でダーナにも教えてあげよう、とユリアは思う。
 足首が隠れる程度の場所から、更にもう二歩足を動かす。それだけでもう膝下まで水に浸かった。見かけよりも深い湖なのかもしれない。
 すい、とユリアの足に小さな魚が触れた。耳を澄ますと、鳥の鳴き声が聞こえる。
 まるで戦場とはかけ離れたその空間に、ユリアは心の底から癒された。

「ユリア様」
 突然、身近から彼女を呼ぶ男の声が発せられた。
 どきりとし振り返ると、そこには木の陰に佇むクリユスの姿があった。
「何だ、クリユスか。驚かすな」
 文句を言うユリアに、クリユスは苦笑する。
「何だではありませんよ、ユリア様。貴女の姿が突然消えたので、慌てて探しに来たのです。出歩かれるのなら、供を一人くらい連れて出歩いて下さいませんか」
 珍しく苦言を呈するクリユスに、ユリアは大人しく軽率だった事を詫びる。
「忙しいところを、わざわざ探させて悪かったな。しかしたかだか私の散歩の付き添いに、兵士の手を煩わせるのも悪いと思ったのだ」
「ユリア様……」
 クリユスは幾分機嫌が悪そうに、溜息を吐いた。こういう態度を取る事も、この男にしては珍しい。もしかすると、本気で怒っているのだろうか。
「……取りあえず、湖から上がっては下さいませんか。もしも今ここに他の兵士が現れ、貴女のその御み足を披露してしまうことになったら、とても愉快な気分ではいられませんから」
「え……あ」
 膝まで水に浸かっている為、ドレスの裾を太腿までたくし上げていた。例え相手がクリユスとはいえ、このようなあられもない格好を晒してしまうとは、なんたる醜態であろうか。
「ば、馬鹿、見るな」
 慌てて水辺から上がろうとし、だが逆に水に足を取られた。ぐらりと倒れかけたその身体を、瞬時に駆けたクリユスが受け止める。
「す、済まない、クリユス……お前の服が」
 ユリアを受け止める為に湖に入り込んだクリユスは、ズボンをずぶ濡れにさせてしまっている。
「服など、どうでも宜しい」
「あの…クリユス」
 端的に言うクリユスに、やっぱり怒っているのだとユリアは思った。普段の彼ならば、「女性をお助けする為に服が汚れる事を気にする男などおりませんよ」とでも何とでも、臭い台詞を一つくらい吐いてみせるというのに。
「も、もう大丈夫だ。離してくれないか」
 体勢を整え、身体を離そうとすると、クリユスが逆に腕に力を入れる。
「嫌です、離しません」
 らしからぬ子供のようなその言い草に、ユリアは思わず目を丸くする。
「な……何を言ってるんだ」
「我等の進行がまだボルテンに知られてはいないとはいえ、ここはもう敵国なのです。そのような場所で突然姿を隠されて……このクリユス、心臓が止まる思いでした。もう二度と、このような軽率な行動はお止め下さい」
 苦しい程にぎゅっと抱きしめられ、その力の強さにようやく、どれ程彼に心配を掛けてしまったのかを理解した。
「済まない、私が悪かった。確かに軽率だった、反省している」
 フィルラーンとしても、“戦女神”というものに対しても、未だ自覚が足りなくて駄目だな、私は。
 それに何より、実の妹のように想ってくれるクリユスに、これ程に心配をかけてしまったことを申し訳なく思った。戦地に赴き、中隊長としての職務で大変な時だというのに。
 心から反省し項垂れるユリアの頭を、クリユスは優しく撫でた。
「分かって頂けたのなら良いのです。何より貴女が無事で良かった」
 顔を上げると、クリユスが微笑みをくれる。昔も、今も、クリユスは優しい。
 二人の間に、穏やかな時が流れていた。だが次の瞬間、嵐が起こる。


「―――――そこで、何をしている」
 静寂なその空間に、雷鳴のような怒声が響いた。その声に驚いた鳥達が、一斉に空へと飛び立つ。
 クリユスと違い、その男は己の不機嫌さを隠そうともしない。何度聞いても慣れる事の無い、その剥き出しな怒りが恐ろしく、ユリアは思わずクリユスの腕にしがみついた。
「申し訳ありません、ジェド殿。気分転換が必要かと思い、私がユリア様を連れ出したのです」
 言いながら、クリユスがさり気なくユリアを背に庇う。 
 それが気に入らなかったのか、ジェドはずかずかと二人の所までやってくると、ユリアの腕を掴み、彼女をクリユスの背から引き剥がした。
「痛っ……」
 強引に掴まれた腕が、折れそうに痛かった。顔を顰めるユリアに、クリユスの瞳に怒りが宿る。
「ジェド殿、女性に対し手荒な振る舞いをするのはお止め下さい」
「五月蠅い、貴様はフィルラーンに手を出すとどうなるのか、分かっていてこいつを連れ出したんだろうな」
 腰に佩いた剣に手を掛けるジェドを見て、ユリアは慌ててその手を押さえる。
「違うんだジェド、私が勝手に抜けだしたのを、クリユスが探しに来てくれただけなんだ」
「ならばそれが、どうしてこういう事になっているんだ!」
 こういうこととはどういうことかと一瞬考え、直ぐにクリユスの抱擁のことなのかと思い至る。嘗てのイアンの惨事が彷彿とされ、ユリアの顔からさっと血の気が引いた。
「それは誤解だ、私達は別に何もやましい関係などでは……」
「お前は黙っていろ!」
 腕にしがみつくユリアを、ジェドは払いのける。少女の体は簡単に弾かれ、地面に倒れ込んだ。
「お止め下さいと、申し上げております!」
 クリユスがユリアを助け起こす。憤怒するジェドを睨み返す事の出来る者など、そう居りはしない。優しげな見た目とは裏腹に、その心の強靭さを、ユリアは知った。
「ジェド、クリユスは私が倒れそうになったのを、助けてくれただけなんだ、本当だ」
「いいのですよ、ユリア様。貴女がそのように言い訳などなされなくとも」
 青褪める少女の手を取り、クリユスはゆっくりとユリアを立ち上がらせる。
「ジェド殿も、ユリア様を心配なされて探しに来たのならば、素直にそう仰ればよいのです」
「な、んだと」
 冷たい目をするクリユスに、ジェドの目が血走った。
「クリユス、何を言っている」
 只でさえ怒っているジェドを、これ以上挑発してどうするというのだ。ジェドが私を心配することなど、ある筈も無いというのに。
「おや、怒りましたか。これは失礼、図星だったようですね」
「黙れ……貴様、死にたいのか」
 ジェドは今度こそ、剣を引き抜く。ユリアの脳裏に、あの嵐の日の恐怖が再び蘇る。
「駄目だ、ジェド」
 再び止めに入ろうとユリアは手を伸ばしたが、
「お前は、下がっていろ!」
 彼女に向けられたジェドの怒声に、足が竦んで動けなくなった。
「ジェ……ジェド……」
 止めなくては、止めなくては。クリユスが、死んでしまう。
 そう思うのに、彫像のように身体が固まってしまい、言う事を聞いてくれない。
「女性をそのように怯えさせるとは、とても紳士の行動とは思えませんね。私を殺したければ、そうなされば良いでしょう。但し貴方に対する不敬罪という事にして頂きたい、ユリア様に手を出した罪などと言われては、彼女の尊い名に傷が付きますから」
 尚も飄々とクリユスは言う。一体どういうつもりなんだ、本当に、死んでも構わないと思っているのだろうか。
「もう止めるんだ、クリユス。これ以上ジェドを怒らせるな……!」
 嫌だ、なんで。
 どうしてこんな事になるんだ。
 私が勝手に陣営を抜け出しただけだというのに、何故クリユスが咎を受けねばならないんだ。
 責めを受けるべきは、私の方だというのに……!

「いいだろう、フィルラーンの名を汚す訳にはいかぬ。お前自身の罪として、お前を処断してやる」
 ジェドは冷たく笑うと、ずい、とクリユスへ向け足を動かす。
 対するクリユスは、己の剣を抜こうとも、逃げようともしない。
「い……嫌だ」
 どうして、どうして、こんな、事に。
「待って……嫌だ、止めて! クリユスを殺さないで……!」
 ユリアは再び気力を振るい立たせジェドの前に立ちふさがると、クリユスを庇うように両手を広げた。
「お願いジェド、殺さないで……!」
 身体がぶるぶると震えていたが、それでもユリアは必死にジェドを見据える。
「ユリア様、お止め下さい」
 クリユスがユリアを下がらせようとしたが、少女はそれを拒否する。
 私は弱い。大切な人を守る為、いつもただこうして懇願することしか出来ない。それでも、それしか出来ないのだから、私はここを引く訳にはいかないのだ。
 そうすれば、ロランの時のように許してくれるかもしれない。一縷の望みをかけ、ユリアは恐怖に耐えた。
 どれだけそうしてジェドの前に立っていたのか、数刻のようにも感じられたが、ほんの一時だけだったのかもしれない。
 先に目を逸らしたのは、ジェドの方だった。
 彼は眉間に皺を寄せ、何とも言い難い複雑な表情を作ると、小さく呟いた。
「そんな目で、俺を見るな」
「――――え……?」
 その言葉はユリアにはうまく聞き取れなかった。聞き返そうとする少女の顎に、ジェドが手を掛ける。
「おいユリア、これが最後だ。次は幾らお前が泣き喚こうが、抜いた剣を止めはしない」
「ジェド……じゃあ」
 ジェドは抜いた剣を、再び鞘に収めた。
「だが、二度と勝手な振る舞いをするな。再びおかしな真似をしたら、お前を殺す」
 クリユスは返事をする替わりに、肩を竦めた。




「やれやれ、あの方と喧嘩するのも命がけだ」
 そう苦笑するクリユスの肩を、ユリアは拳を握り叩いた。
「何で、あんな挑発するような事をするんだ、本当に、殺されるかと思ったんだぞ……!」
 瞳に涙を滲ませるユリアに、クリユスは幾分眉を下げた。
「ご心配をお掛けし申し訳ありません、ユリア様。けれど恐らく、ジェド殿には本当に私を殺す気は無かったと思いますよ」
「え?」
 ユリアは首を傾げる。とてもそうは思えない、あんなにジェドは殺気を漲らせていたというのに。
「ジェド殿はフィードニア国王軍の総指揮官です。ボルテンへの進行の最中である今、突然自軍の中隊長が処断されるなどという事が起これば、兵士達を無駄に動揺させるだけです。私憤でそのような愚をなされる方では無い、恐らく私を脅しただけですよ。……まあ、本当に私がユリア様を襲っていたというのなら、別でしょうが」
 涼しい顔で、クリユスはぬけぬけとそんな事を言う。
「だが、そんなこと分からないではないか。あのようにジェドを侮辱して、怒りも過ぎれば前後など忘れ、手が出てしまうかもしれないぞ」
「まあ、そういう事もあるかもしれませんね」
「クリユス…!」
 怒鳴るユリアに、にこりとクリユスは笑った。
「けれど、例えあそこで殺されていたとしても、ああ言わねば気が済まぬ程に私は腹が立っていたのです。嫉妬するのは勝手ですが、それで女性に乱暴するなど子供のやる事……。だから私は素直にあの男に任せる事が出来ぬのです。全く……あの青二才が……」
 最後にぼそりと呟かれた言葉に不穏な空気が流れたが、ユリアはその事を気にしている余裕が無かった。
「嫉妬? 誰が、何に?」
 ジェドとその言葉が、ユリアの頭の中で余りに結びつかなかった。
 立場上呑気に水遊びなんてものをやる事が出来ないジェドが、立場も忘れふらふらと遊んでいる私に嫉妬でもしたのだろうか。
 しかしユリアにしてみれば、普段自由気ままにやっているのはジェドの方こそのように思えるのだが。
「総指揮官が進軍中に遊ぶことなど出来ぬのは分かるが、それは私の所為ではないというのにな」
「……は?」
 同意を求めるように言ったユリアの言葉に、クリユスが珍しく目を丸くした。
「え、違うのか?」
「いや……何をどう考えたらそういう話になるのか」
 クリユスは額に暫らく手を当て考え込んでいたが、ふっと苦笑する。
「まあ、分からなければそれでも良いですよ」
「?」
 首を傾げるユリアに、「そろそろ戻りましょうか」とクリユスは言う。
「ダーナ様が心配されているかもしれません。……その場合、やはりまた私が怒られるのでしょうね……」
 確かにダーナは怒ると恐い。
 しかし憤怒するジェドに喰ってかかる男が、少女の怒りに怯えるとはおかしなものだ。
 肩を落とすクリユスの姿に、込み上げる笑いを何とか堪え、ユリアは神妙に謝った。
 














100話記念のリクエスト企画に書いたものです。
お題は「ユリア、ジェド、クリユスの三角関係」です。

リクエストして頂いたterry様、ありがとうございました。




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